出 版 社: 徳間書店 著 者: ヘルマン・シュルツ 翻 訳 者: 渡辺広佐 発 行 年: 2020年03月 |
< ぼくたちがギュンターを殺そうとした日 紹介と感想>
戦争での殺人はノーカウントです。いや、そんなことはないでしょう。罪に問われることがないとしても、人の心はその行為を背負わなければならず、どう消化していくのだろうかと途方に暮れてしまうぐらいです。戦勝国であれば、それが英雄的行為に昇華することもあったかも知れません。では敗戦国になったら、その罪をあらためて贖わなければならないのか。実際、当事者の心中は図りかねるし、二元論で語れることでもないでしょう。戦争で殺戮に加担したことを後悔のうちに受け入れるとしても、あれは平時ではなかったのだと、戦争という特別な時期だったのだと、考えるしかないのではないかと思うのです。悪いのは戦争であり、為政者であり、その暴走を許した国民です。それはそれとして、人を殺した当事者は、やはり背負うものがあり、その痛みに多くの人は口を閉ざしてしまうのでしょう。そんな口を閉ざした状態が雄弁に物語ることもあります。一方で、倫理観がまだ定まらない子どもたちには、戦時には許されていた行為が、平時には許されない理屈が分かりません。この物語は第二次世界大戦に敗戦したばかりのドイツに暮らす子どもたちを描いています。作者の子ども時代の体験談から語られるリアリティのある、少年たちの心模様が、この複雑な命題を考えるヒントを与えてくれます。
侵攻された東プロイセンから、北ドイツの農村に逃げてきた難民の子、ギュンター。しゃべり方はもごもごとして、鼻汁をたらし、授業でもほとんどしゃべらない。頭が足りないと思われているギュンターは、同じ年頃の子どもたちに嫌われていました。主人公の少年、フレディもまたそんなギュンターに構うことはせず、親しい仲間たちと一緒に遊んでいました。その日、農家のニワトリ小屋から卵を盗み出す計画を立てていたフレディと仲間たちは、何故か自分たちについてくるギュンターのことを煩わしく思っていました。ただ黙ってついてくるギュンターは、小突いたぐらいでは言うことを聞きません。そこでフレディたちはギュンターをかなり痛い目に合わせてしまうのです。それは自分たちが思っていたよりも、過度にギュンターを傷つけてしまったらしく、次の日からギュンターは学校に来なくなります。ギュンターが誰かに手ひどくいじめられたことは村の中で噂になりますが、ギュンター本人がそのことを口にしないため、犯人はつきとめられることはありません。ただ、フレディと仲間の少年たちは戦々恐々とした日々を過ごすことになります。このことが明るみに出ると、大人に叱責されるどころか、家を追い出され、施設に入れられてしまう子もいるのです。「ちょっと抜けている小さな子をめちゃめちゃに痛めつけた卑劣な連中」のことを、大人たちが怒りをこめて蔑む言葉を聞いて、フレディたちは気が気でありません。ついに仲間の一人であるレオンハルトは、この際、ギュンターが口を割る前に、この世から消えてもらうことを提案します。ナチスドイツは、ユダヤ人だけではなく、「頭がおかしい人たち」も処刑してきました。ならば、今、ギュンターを殺してしまったとしても構わないのではないのか。そんな正当化が少年たちにスイッチを入れます。あえてギュンターを仲間に引き入れて、機を伺う少年たち。しかしフレディは、馬に対するギュンターの博識さや、馬のことを話す際のよどみない口調に、彼の知能が劣っているということを疑い始めます。ギュンターを殺す計画を進めていくレオンハルトを直接止められないフレディは、その企みが潰えるよう策を巡らせます。少年たちはこのまま殺害を実行してしまうのか。この後、物語が少年たちに見せていくものに注目です。
子どもたちが戦争を現象面だけで捉えてしまうことを責められないのは、彼らもまた戦争にいやというほど傷つけられ、打ちのめされてきたからです。それもこれも大人の責任ですが、戦場にいた大人たちは、さらに戦争の深層を体感しています。心に傷を負ったままの大人たちは、多くを語りません。それでも少年たちに伝えるべきものを伝えようとするところに、この物語の真意があります。少年たちの前にあらわれた戦場から帰ってきた青年ヴィリーは、一体、何を見てきたのか。多くを語らないヴィリーの心中を、少年たちは想像するしかないのですが、そのメッセージは伝わってきます。口を閉ざすことで伝わることがある、なんて不思議ですね。結果的に「無精ひげを生やした兵隊くずれ」の青年ヴィリーがギュンターの、そして煮詰まってしまった子どもたちの窮地を救います。「いじめる側」には死角があります。一面的にしか物事が見えないからこそ、残酷にもなれます。自分の悪意さえ見えていないのです。人の心や物事の深層を知ってしまうと、もはやイージーな行動は起こせないものかも知れません。少年たちは、この死角を見せつけられます。自分たちがこれから引き起こす行為を目の前にして、立ち止まり考えることができたのです。かたや大人たちは、やってしまったことや止められなかったことの記憶とともに生きていかなければなりません。ここにあるやるせなさが戦争の惨さでもあると思うのです。レオンハルトの「何もかもだいなしにする」大人への怒り。その怒りをぶつけられる大人たちが、子どもたちのためにできることを思います。戦争で傷ついた大人たちの心もまた、子どもたちの未来を安らかにすることで、痛みが和らいだのかも知れません。余談ですが、国内児童文学の中では日中戦争の際に日本兵が「中国でやったこと」への触れ方が鬼門となります。ここには子どもたちには詳しくは話せないが、という大人のスタンス自体が物語っているものがあります。一方で革新的な作品である『金色の流れのなかで』のように、わりと気軽に戦時中の殺人を口にする父親に子どもがショックを受ける姿を描く作品もあり、児童文学が戦争を照射する方法が変化してきていることを感じます。