だれもみえない教室で

出 版 社: 講談社

著     者: 工藤純子

発 行 年: 2023年01月

だれもみえない教室で  紹介と感想>

圧倒的なパーソナリティで、いじめだろうと学級崩壊だろうと、教室の問題をノックアウトする救世主的先生の存在はアリだと思います。時にハメを外したり、極端な行動で校長や教頭にお小言をもらいながらも、子どもたちのためを思って奔走する先生。そう後藤竜二さんの『大地は天使でいっぱいだ』(1967年)のキリコ先生みたいに。いや、それはあの牧歌的な時代だったからそんな先生を描けたんじゃないか、と思いきや、学級崩壊の時代にだって、後藤竜二さんは『12歳の伝説』(2000年)のゴリちゃんのような、豊かなパーソナリティで子どもたちの心を動かす先生を登場させたのです。さて、現在(2023年)、後藤竜二さんを失った児童文学は、どんな先生を教室に降臨させたらいいのか。児童文学のひとつの潮流は、もはやダメな大人の象徴である先生に頼らず、子どもたちが自助で教室を変えていくものです。先生はすでに空気化しています。また一方で、悩める大人として先生の内面が描かれ、その等身大の姿で生徒たちと対峙する姿勢が教室の閉塞した空気を少しだけ換気していく物語もあります。先生はカリスマやスーパースターではなくても、生徒の気持ちに寄り添うことはできるのです。近年、衝撃的だったのは、山本悦子さんの『神隠しの教室』(2016年)です。ファンタジーながらリアルなディテールが響く物語は、いじめられていたトラウマに苦しむ先生を登場させ、かつて自分をいじめた首謀者を生徒の母親として対峙させる冷や汗が出るようなスリリングな展開を描きました。さて児童文学の現在地である本書は、先生自身が、不本意ながらも、かつていじめに加担していた側だったという気重な設定が凝らされています。そこには呵責や、なけなしの自己肯定があり、先生のメンタルは複雑で歪んでいます。そんな先生が教室でどんな顔をして、子どもたちのいじめを制したら良いのか。足元が不確かな大人だからこそ、その眼差しが、教室の見えないものを捉えられる可能性もあります。清廉潔白ではなくても、弱くて、情けなくて、不甲斐なくても、それでもまだ子どもたちのために戦える。そんな絞り出した勇気に励まされる物語です。いじめは解決できる。物語の祈りと願いは、現実を超えていきます。

小学六年生の男子同士のいさかいが、いじめとして認定されたのは、集団での個人への嫌がらせがあったからです。三橋清也(せいや)のランドセルに、教室で飼っている金魚のエサを注ぎ込んだのは関颯斗(はやと)でしたが、連(れん)たち同級生三人も颯斗の行為に手を貸していました。すこし前から、颯斗は清也に対して、色々な嫌がらせをするようになっていました。一時は親しく遊ぶ仲間であったものの、ちょっとしたきっかけから、颯斗は清也に突っかかるようになったのです。結果的に颯斗に手を貸してしまったものの、連は親しかった清也を裏切ってしまった自分に呵責を覚えます。一方で、颯斗の様子もどこかおかしく、やがて連に対して暴力を振るうという事件が起きます。問題は大きくなっていき、父母が学校に招集され話し合いが持たれます。この状況をどう収束すべきか。担任であるまだ若い原島夏帆先生は、この事件でそれぞれの親子もまた傷ついていることを知ります。担任として責任を感じるとともに、原島先生には胸に兆すものがありました。小学生の時、自分もいじめに加担して、親しかった子を傷つけてしまった記憶に苛まれていたからです。そんな自分は教師としてどうふるまったら良いのか。教師も親も一緒になって子どもたちを守らなければならない。原島先生がその覚悟を決めるには、まだしばらく逡巡する時間が必要です。一方で、物語は、清也、連、颯斗の心のうちを描き出し、当事者たち以外にも、このいじめを目撃していた同級生の思惑にも触れていきます。いじめに関わることで失われる人としての尊厳。恥ずかしく情けない気持ち。いじめられた側だけではなく、いじめる側もまた胸を張れず、見過ごしてしまった側もまた同じなのです。いじめの首謀者である颯斗もまた清也から見下されていると思い憤懣を抱いていますが、それは厳しい家庭環境の中で歪められた自分自身への苛立ちだったのです。心のバランスを崩している颯斗の行動がドミノ倒しのように、同じ教室の子どもたちに伝播していきます。いじめは教室全体が当事者であり、直接、関わらなくても多くの子どもたちが傷つきます。先生もまたそれを監視する立場だけではありません。むしろ一番大きなピースなのです。自分の過去の経験を踏まえて、被害者の気持ちだけではなく教室全体を慮る原島先生は、ここでどんな行動に出たのか。問題解決のケーススタディや方法論ではない、児童文学の善意がここに結ばれていきます。

この物語には、いじめを見過ごすような卑怯者であることは恥ずかしい、という健全な倫理観が息づいています。実際のいじめの加害者たちには、そんな感覚はあらかじめ欠如しているのではないか、あるいは、人への共感能力が極端にないのではないか。そんな疑いを僕は抱いています。もはやマトモではないのだと。同調圧力で不本意ながらいじめに加担してしまった子どもたちは、呵責に苛まれることもあるかも知れませんが、逆に首謀者は確信犯であって、ある意味、悪気はないのだろうと想像しています。昨年(2022年)刊行された児童文学作品『星の町騒動記』では、いじめていた同級生が自殺して、今度は自分がいじめられるようになった少年を描き出しています。誰も責任をとらない荒涼とした世界。特に大人たちのグダグダ加減は、子どもを失望させるのに十分なものです。真摯に生きるという姿勢を誰から学べば良いのか。孤独のうちに、子どもなりの覚悟を決めていく主人公もまた良し、なのですが、不甲斐ない大人にも再起を促したいものです。本書の大人たちもまた、事勿れ主義で、穏便にやり過ごすことを旨としているように見えます。問題を起こさないことが第一。もちろんトラブルを避けることは、悪いことではなく、リスクマネジメントは卑怯ではなく、学校という事業継続の上では大切なことです。ただ、あえてそれを投げうって、子どもの味方につく無謀にこそ教師の本懐があるのではないのか。問題を顕在化させないことこそが問題なのです。教室の救世主にはなれなくても、胸に灯すスピリットがあります。大人の都合ではなく、子どもたちの心を守ろうとする、揺るぎない意志の力。そんな大きな善意をこの物語に感じています。僕は半ば諦めてしまっていて、いじめという悪事も、集団に必然的に発生する自然現象のように捉え始めています。そんな気持ちにノーを突きつけて、蹴り飛ばしてくれる物語です。子どもたちの、子ども時代の思い出を灰色に塗り潰させないために、いじめをめぐる絡まった心の綾をちゃんと紐解いていくことが大切なのです。ヒーローではない、等身大の原島先生の覚悟が、目を逸らしてしまいがちな教室の深層に向きあう勇気を与えてくれます。いや、若い先生って、本当に大変だと思います。自分が会社員になって新卒からの数年なんて、何もできなかったですよ。外に出す文章を描いたら、上司に沢山、赤を入れてもらえたのがありがたかったです。上司の責任問題云々ではなく、そこには、社会人としてちゃんとできるようになるように、という教えだったのでしょう。今、新人のメールなんて、そこまで添削してあげないですよね。徒弟時代なのに、先生と呼ばれている方たちの苦労を思います。