ぼくだけのぶちまけ日記

THE RELUCTANT JOURNAL OF HENRY K.LARSEN.

出 版 社: 岩波書店

著     者: スーザン・ニールセン

翻 訳 者: 長友恵子

発 行 年: 2020年07月

ぼくだけのぶちまけ日記  紹介と感想>

十三歳のヘンリーが、カウンセリングを受けている精神科医のセシルからもらったノートに書く日記から、彼が置かれている難しい状況が次第に明らかになっていきます。引っ越しして学校も転校し、母親と離れて父親と二人で暮らすことになったのは、すべては兄ジェシーのせいです。同じ学校のスコットと仲間達から、子どもの頃から執拗ないじめを受け続けていたジェシー。ついに耐えかねて、父親の猟銃を持ち出し、スコットを射殺して、自分も自殺するという暴挙におよびます。そのことで、ヘンリーと家族の生活は一変しました。ジェシーがひどいいじめを受けていたことが報道される一方で、根も葉もないジェシーの悪い噂も撒き散らされます。この田舎町にいられなくなった家族は都会のバンクーバーへと引っ越しすることになりますが、お母さんは精神を病んで入院したために、お父さんとヘンリーとの二人暮らしが始まります。カウンセリングを受けてはいるものの、事件のことを口にすることもできないヘンリーの心は乱れたままです。兄を失った悲しみと、兄のせいで普通の家族としての生活を失ったことへの憎しみ。親友だった、スコットの妹のジュディと顔を合わせようがないこともヘンリーの心に重くのしかかります。両親の失意や苦悩をわかりながらも、どうして良いのかわからないまま反抗的にふるまってしまう。そんな心の葛藤が綴られていく日記は、やがてヘンリーが抱いていた自責の念の核心にも迫っていきます。取り返しがつかないことを、どう取り返したらいいのか。引っ越しした先の新天地で、傷ついた心を抱えたヘンリーが、それでも少しずつ自分を取り戻していく姿が描かれていきます。

ヘンリーにつきまとっているのは、兄の事件を知られることへの恐れです。つねにそれを警戒しているために、つい身構えしてまう。母親が精神を病んで病院に入ってしまったように、ヘンリーもまたストレスで太りはじめていました。誰も知っている人がいない場所に行っても、心は決して穏やかにはなれません。自分たちのことは放っておいて欲しいと思っているのに、引っ越し先のアパートの住人たちは干渉してくるし、転校先の学校ではヘンリーにフレンドリーに接してくれる子もいます。学校で出会ったファーリーは、いつも『宇宙空母ギャラクティカ』の話ばかりをしているファッションからして完璧なオタク少年ですが、屈託のない性格でヘンリーにどんどんとコミュニケーションしてくるのです。ファーリーが参加しているクイズ研究会の「リーチ・フォー・ザ・トップ」(カナダの中高生のクイズ大会)の出場を目指すチームに誘われたヘンリーは、戸惑いながらも仲間に加わり、チームのメンバーとも親しくなっていきます。ヘンリーの家族は以前、テレビで放送されているプロレス中継に熱狂していました。それはジェシーが生きていた頃の家族の楽しい思い出です。入院している母親にその実況中継の模様を話して聞かせることが、今もヘンリーの慰めでした。プロレス団体の興行が地元であることを知ったヘンリーは、サプライズで両親を招待しようと、やはりプロレス好きのファーリーと一緒に廃品回収のアルバイトを始めます。母親の状態が良くならず、父親との関係もぎくしゃくしていることをヘンリーは気に病んでいました。両親の心の負荷はより重くなっていき、それぞれがこの時間に耐えています。本当は両親がヘンリーをケアしなければならないのに、それができないことも両親を苦しめています。両親の仲をとりもち、以前のように暮らしていくことがヘンリーの願いでした。とはいえ、ヘンリー自身もまだ彷徨しています。兄ジェシーへの愛憎は、兄を救えなかった自分自身への苛立ちでもあり、その行き場をヘンリーは見つけなければなりません。家族をなんとか再生させたいと思うヘンリーの健気で、屈折した気持ちがいじらしくて、切なくなります。ヘンリーが日常を少しずつ取り戻していく姿には嬉しくなり、学校の仲間たちや、アパートの住人たちの、ヘンリーとその家族に寄り添おうとしてくれる気持ちの温かさには救われます。人生は悪いことばかりではないのだと、そう思わせてくれる物語の希望には感謝したくなるのです。

絶望的な事件が描かれた物語です。一過的な出来事ではなく、将来に残した禍根もまた大きいものです。人はどうやったら、この絶望感から立ち直れるのかと、途方に暮れてしまいます。それでもここにはわずかな希望が残されています。死んでしまった人間には失われてしまったものではあるけれど、生きている人間は、この希望をつないでいかなければならないのです。ヘンリーの兄や両親を思う一途さや、自棄になったり、ままならないことに怒りを覚える気持ちにはシンパシーを感じます。どうあがいても事実が変わることはありません。それでも、あがいた時間こそが人を悼むものであり、自分もまた慰められる、ということもあります。死んでしまった人間に対して、何もできなかったという後悔や、過去の分岐点で自分の行為のために現在がこうなったのではないのか、と考えることは、無駄ではなく、事実を受け入れるために必要なプロセスではないかと思います。これは心のアクロバットですが、現在を痛みとともに受け入れることで、未来を変える力を取り戻せることもあるのではないかと思うのです。ただ、それはとてもハードワークで、へこたれてしまいますね。そんな時、支えてくれる力が必要なのだと思います。自分も子どもの時に家族が自殺していますが、などと、わりと平然と書くことができる現在ではあるのですが、当時はメンタルケアなどまともにない時代で、誰ともそうした気持ちを共有することもできないまま迷走していたことが思い出されます。時間の経過で痛みは減りますが、忘れることはできません。ただ痛みを忘れないことにも意味はあるだと、思いたいのです。その痛みが自分にとって意味があったのだとも。周囲に理解者が現れないことも現実ではよくある話です。誰も支えてくれないまま、どこへ向かえば良いのかわからない時、物語が地図になることもあるでしょう。自分にとっての正解が書いてあるわけではないけれど、同じように苦闘を続ける仲間がここにいます。読書の効用もまたあるはずです。人の好意をはなから信じなくなると、見過ごしてしまうものがあります。人は存外、優しく、それは最大限に受け止めたい。物語が与えてくれる希望を、都合の良い展開だと一蹴せず、今はまだ見えない光だとしても、信じていたいものですね。