出 版 社: 講談社 著 者: ひこ・田中 発 行 年: 2019年01月 |
< ぼくは本を読んでいる。 紹介と感想>
読書が趣味であるとか、読書好きを表明している方に多少、苦手意識があるのは、読者としての僕のスタンスがいたって適当だからです。読者好きの人を、鼻持ちならないペダンティックな教養主義者め、などと目の敵にしているわけでなく、自分が読書を楽しめていないことでの羨ましさがあるのでしょう。読書に対してはこだわらず自然体でいたいなとは思うのです。読書という行為自体に色を付けず、ただ物語の世界にダイブする。そしてこの物語の主人公のように、本を読み、ただ考えることで、自分の中で物語や登場人物を深めていきたいのです。この作品は小学五年生の男子、ルカが『小公女』と『あしながおじさん』を読む、それだけの物語ですが、とても考えさせられます。彼の読書のスタンスが凄く良いんですね。構えずに肩の力を抜いた状態で本を読んで、そして考えている。彼の感受性が物語をどう写しとるか。その心に投影された「ご存知の物語」が新たな香気をまとっているのは、彼自身に気品があるからだと思います。少年時代にこんなふうに本を読めていたら、もっとちゃんとした大人になれていたかもと思うような、羨ましくもある物語です。僕は高校生や大学生の頃、こうした少女小説の古典を一応、読んでいました。ほとんどカッコつけのポーズで、今となっては恥ずかしいばかりで忘れてしまいたいことです。忘れることの効用もまたこの物語が教えてくれることですが、その滋味は小学生にはわかるまいと思っています。いや、忘れた方がいいこともありますって。
両親の本がしまわれている「本部屋」。普段立ち入ることもない本部屋でルカが見つけたのは一冊の古い本でした。岩波少年文庫の『小公女』。奥付の発行年から推測して、おそらく両親のどちらかが自分と同じ年頃に読んでいたもの。そう思うとルカは俄かに興味を覚えて、隠れて密かに読み進めることにしました。ルカは『小公女』の主人公であるセーラの行動や言動に驚かされます。逆境でも毅然とした態度を取り続けるセーラの自尊心にリスペクトを覚え、彼女を支えている空想力についても思い至ります。続いてルカは『あしながおじさん』を読みます。主人公ジュディの行動や態度を考えるルカは、セーラと同じ自尊心を彼女に見いだします。やがて物語の終わりにルカは、物語に自分の想像力を問われていたのだと気づきます。本を読むだけではなく、自分で考える。自分の意見を友人たちや両親と交わすことで考えが深まる。次の本をルカはさらに進化した感性で読み、また考えていくのでしょう。そんな幸福な連鎖が続く期待感もまた心地良い作品です。例えば、あの本だったらルカはどう読むか。彼に読んで欲しい本がたくさん思い浮かんでくるはずですよ。
毒親傾向のある両親に育てられた子どもが自分を取り戻していく物語が、このところのトレンドかと思っています。一方でこの物語の両親のルカへの態度は、まあなんとも主知的で、子どもを尊重しています。自分の仕事への意見を子どもに求めてみたり、親の価値観を押し付けることもない。我知らず子どもは自尊心や自己肯定感を養われる環境にあって、そうした豊かな感性こそが、ルカが読者として物語の主人公から美点を見出している資質なのだと紐解かれていく構造です。「主人公は読者」という物語がままあります。読書することが主人公に大きな影響を与えていく物語。ここ数年だと『レモンの図書室』『坂の上の図書館』『ぼくたち負け組クラブ』あたりがそうだったか。読書する主人公の心境と、実在の著名な物語はどうスウィングするのかも楽しみなところ。物語を読む感性を読む物語、なのです。「主人公は読者」には現実の苦境が読書によって緩和されるというパターンもあるのですが、本書はそうしたものと縁遠いところも魅力のひとつです。そういえば「主人公は読者」には『読書マラソン、チャンピオンはだれ?』のような、読書好きの暗黒面を見せつけられる作品もありました。読書が趣味にも色々なスタンスがあります。で、読書が趣味の方は大抵、『続あしながおじさん』の方が面白いって言うんです。僕もそうなんだけれど。その魅力について僕もまた考えてみます。