ハスキーなボクのユウウツ

HUSKY.

出 版 社: 岩崎書店

著     者: ジャスティン・セイヤー

翻 訳 者: 海後礼子

発 行 年: 2019年05月

ハスキーなボクのユウウツ  紹介と感想>

太っていることは非難されがちです。いや、非難というより冷笑や侮蔑されるものかも知れません。とはいえ口さがなくデブと言うのは、本人の自虐的自称だったりするぐらいで、その言葉の鋭さから逆に面と向かって使われなくなっているかなとも思います。まあ、子ども時代のハードタイムをのぞけば。ハスキーという言葉は、日本ではハスキーボイスのように「枯れた」という意味合いで使われますが「がっしりした」というニュアンスもあるそうです。この物語の主人公の十二歳のデーヴィスは、わりとハスキーな少年です。ただ、そうした一つの形容詞で括られることにも抵抗があります。自分は太っていてキモくてみっともない「何か」なんだけれど、何なのか自分でもよく分からない状態なのがデーヴィスなのです。彼の一人称から語られる物語は、悲壮感溢れる自己卑下ばかり。そんな彼の視線がビビットに捉えた友人たちや家族との関係が描かれます。デーヴィスは自分が思うよりもずっと愛されているのだけれど、過剰な自意識が邪魔をして色々と大変なのです。いや思春期は多かれ少なかれこんなふうなもの。自分がなんだかよく分からない少年が、分からないなりに自分を受け入れていく成長物語です。

この物語の鑑賞が非常に難しいのはデーヴィスのものの見方に対して、客観的な突っ込みが入らないところです。デーヴィスに優しくしてくれる人や親しくしてくれる人はいるものの、真の理解者はいないのです。ママもまた自分と同じように悩んでいたとデーヴィスが知る場面がありますが、やや感覚が違うと思います。ママはデーヴィスを理解できているのかどうか。読み進めるうちに、デーヴィスがかなり変わった子なのだとわかってきます。趣味は年頃に似合わずオペラを聴くこと。男の子の友だちはおらず、親友は二人の女の子。なのに、次第に女子の仲間に入れなくなっていくのは、自分が太っていてキモいからだと思い込んでいきます。女子たちのメイクオーバーパーティーに参加できないのは、フラットに考えると当然なんだけれど、デーヴィスは自虐的な方向でそれを受け止めていきます。どこかフツウの子と違っているデーヴィス。彼自身が自分の感覚のズレに気づいていない。おそらく彼は「無自覚なゲイ」であって、それゆえの繊細さを持て余しているのだと、読者がようやく気づかされていく構造です。そういう見方でおさらいすると、色々なことが腑に落ちるのですが、こうした子が自分の生きづらさに折り合いをつけることの難しさと、それでも自分らしく生きることの貴さを感じるところです。ということで全編読みきると、ようやく全体がよく見えてくる作品かなと。

人にレッテルを貼ったり、カテゴライズすること。高校に入る前には誰もが一つの言葉で形容されるようなキャラクターが決まってしまう。そう言われたデーヴィスは、友人のエレンやソフィのことを一言で形容しようとします。となると、自分がなんと言われるのかも不安になってくる。デブ、というよりはハスキー。それでも、デーヴィスには自分でも気づいていない美点もあるのです。もちろん人間なんて色々な要素が混交していて、曖昧なものです。自分を規定しようとすることは小さな箱に自分を押し込めるようなもの。一言で形容できるはずなどないというのが真理です。ハスキーとゲイの間にいるなんだかよくわからないデーヴィスだけれど、愛される。人のことだって、先入観で決めつける必要はない。読者の心がそんなふうに解けていく物語です。理解されたり、完全に分かり合えることはなくても愛し合えるものです。一方で物語の中のデーヴィスがそう思えるようになるには、まだまだ時間がかかりそうでユウウツな日々は続きそうだとは思うのだけれど。読者と主人公の気づきにギャップがあるところが新機軸かも知れません。