坂の上の図書館

出 版 社:  さ・え・ら書房

著     者: 池田ゆみる

発 行 年: 2016年07月


坂の上の図書館  紹介と感想 >
住む家のない子どもと母親が一時的に住むことができる自立支援センター「あけぼの住宅」。小学五年生の春菜は、お母さんと一緒にここで暮らすせるようになりました。お母さんは、こうした場所に世話になることに抵抗を感じていましたが、春菜はここにようやく落ち着ける場所を見つけたのです。住む場所を転々とした、それまでのめまぐるしい毎日。ここに暮らせることで、お母さんは新しい仕事を探し、春菜も学校に通うことができるようになりました。そして、この施設のすぐ隣には、あの白い大きな建物があったのです。市民図書館。そこで春菜は、絵本の「読み聞かせ」を聞き、生まれてはじめて「本を借りた」のです。これまでの春菜の人生にはなかった本との出会い。『ちいさなおうち』『エルマーのぼうけん』『やかまし村の子どもたち』『白い馬をさがせ』『長くつ下のピッピ』『あしながおじさん』。図書館の司書さんに勧められて手にとった本に、春菜は時間を忘れて心を奪われていきます。重い生活のリアルに翻弄されたまま、無抵抗に生きてきた春菜。自分を表現することができない無口で大人しい少女が、本を通じて人と心を通わせ、世界を広げていく穏やかな物語。同じ本を何度も読み返し、好きな本の世界に入り込んでいく「読書に目覚める頃」の感覚が凝縮されている瑞々しい物語です。

春菜の勉強は遅れていました。五年生でありながらも、九九からやりなさないとならないほど。転校するたびに、人からちょっと注目されても、すぐに誰からも見向きされなくなることの繰り返し。今、流行っていることがわからず、同級生と話をあわせることができない。そんな春菜だから、もう誰も話しかけてこない方がいいのだと思うようになっていました。でも、この学校では、そんな考えに沈んでいた春菜に声をかけてくれる女の子がいました。佐久間真琴。春菜を積極的に誘ってくれる真琴に、次第に心を開いていく春菜。真琴は春菜が住んでいる場所が、どんなところかも良く理解しているようだし、なによりも、春菜が読んだ本はほとんど読んでいて、話がはずむのです。人を気づかい、誰にも心を配ることができる真琴。春菜の長所を見つけ出し、嬉しい気持ちを抱かせてくれる真琴。しかし、真琴はその飛び抜けた資質のために、逆にクラスから無視されていくようになります。春菜は自分に力を与えてくれた真琴のために何ができるのか考えます。やがて、春菜は真琴の「事情」を知り、ひそかに決意を抱きます。読書と真琴との友情を通じて、春菜の世界は大きく広がっていきます。お母さんの前で自分の心のうちを打ち明けることも、泣くことさえもできなかった春菜の、その成長はたわいもなく、ごくごくわずかなものですが、その小さな一歩のあまりの大きさに、深い慈しみを覚えてしまうはずです。

この物語には、シングルマザーになったお母さんの心の事情も絡み合ってきます。ここにはリアルな生活の重さが描かれていきます。家庭の経済力によって、子どもの生活の質が大きく変わっていくことは必然です。育つ環境を自ら選ぶことができない子どもにも、公共図書館は平等に本を読む楽しみを与えてくれます。それはごくささやかなことです。それでも読書によって自分で自分を楽しませることができるのだと知ることが、人間にとって大きな支えとなるものと思うのです。図書館を利用することなんて、ごくあたり前のことを何を今さら大仰に、と思われるかも知れませんが、あらためて「本を読むこと」の歓びについて考えて欲しいと思います。図書館と本の物語であるのですが、本の世界に心をとじこめていくものではなく、本が人と交流していくパワーを与えてくれることを描いたものです。これは児童文学における定石である読書によって目覚めていく成長物語に通底する要素です。本と読書を通じて自分の世界を獲得していく姿が目覚ましいのですが、この本の年少の読者たちもまた、春菜の気持ちを追体験していくだろうと、その姿がオーバーラップされるところにも味わいがあります。