出 版 社: 講談社 著 者: 八束澄子 発 行 年: 2006年04月 |
< わたしの、好きな人 紹介と感想 >
過去のある男、杉田亮。いや、訳ありの男、というべきか。小学六年生のさやかの家の工場で、住み込みで働いている杉田亮は三十六歳。さやかがまだ赤ん坊だった頃、働かせて欲しいと、ふらりとやってきた杉田の素性を何も詮索せずに採用したのは、さやかの父である、おやっさんでした。それからというもの、おやっさんと二人で金属加工の小さな工場を支え、母親が出て行ってしまった家で、さやかと六歳上の兄の透の面倒も見てくれた杉田。しかし、杉田には人に知られてはならない秘密がありました。それが明らかになるのは物語の終わり間際ですが、読者としては、どこか影のある杉田の佇まいに、きっと何か事情があるのだろうと想像力を刺激され続けます。勉強家でいつも本を読んでいる、物静かで、彫の深いいい男というあたりもミステリアス。杉田が『世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない』という宮沢賢治の言葉をさやかに教えてくれたことだって意味深だし、片方の頬にある傷も、本当に子どもの頃のケガによるものなのかと疑ってしまいます。そんな杉田は、さやかにとって特別な存在でした。十二歳のさやかの三倍の年齢で、赤ん坊の頃から面倒を見ている杉田にすれば、さやかはまだまだ子どもなのですが、さやかの方は杉田のことを男性として意識していて、初恋の人だと思っています。そんな人と一緒に暮らしているわけですから、基本、さやかは有頂天です。物語は、おやっさんが、脳梗塞で倒れたことで急展開します。これまでの家族のバランスが崩れて、新しいターンを迎える時。さて、十二歳の少女が憧れる「好きな人」は、いつまで、その存在のまま、傍にいてくれるのか。読者もまた十二歳の少女のように、いつしか初恋の人がどこかに行ってしまう予感に胸を痛めながら、得恋の有頂天を味える、そんな物語なのです。
この物語、誰もそんなにちゃんとしていません。というと語弊があるので、言い換えます。ごく等身大の人たちの物語です。わがままだったり、自分勝手なところもある、決して「ご立派」ではない、キチンとし過ぎていない人たちの物語です。舞台は1992年。バブル景気の終わり頃。町工場の経営は苦しいものの、所謂、貧困や生活苦を意識させる時代の趨勢ではありません。ほどほどに倹しく生きている、さやかの家族。父親である、おやっさんが倒れて、一番しっかりしなければならないはずの長男は、これで引きこもりから脱皮するのかと思いきや、急に家を出ていってしまいます。要は逃げたのです。父親の介護に忙殺されているさやかは、そんな兄のことを心配するおやっさんに腹を立てます。おやっさんもまた後遺症で思うように動かなくなった自分の身体に苛立って癇癪を起こしたりと、実に遠慮なく当たり散らしあう家族なのです。さやかも、健気だったり、しっかりしすぎていない子であることがポイントです。母親は赤ん坊の頃に出ていったまま、父親は要介護、兄も頼りにならない小学六年生、という状況はかなりハードなのですが、大好きな杉田がいるから大丈夫、ということで、さやかのバイタリティは満たされており、悲壮感がありません。さて、この家族の一員として唯一、しっかりしているように思える杉田ですが、実際、彼の抱えていた問題は、かなりレベルの高いダメなことです。ただ、この家族が、それはそれとして、それでも杉田を愛するという、倫理感を越えたところにあるサムシングに、戸惑いながらも納得させられてしまいます。どうかしているけど、それもまたあり、なのだなと。色々な意味で思い切った物語だと思います。
野間児童文芸賞を受賞した作品ですが、発売当初は一般書のようなイメージで扱われていた気がします。装丁も大人向きです。国内児童文学作品は(文学的にはともかく)マーケティング的に今ほどヤングアダルトという中間ジャンルが確立していない頃でもあり、佐藤多佳子さんや森絵都さんなどが児童文学と一般小説を行き来してヒットを飛ばしていた時期でもあって、そうしたルートの開拓が意図されていたのではないかという気もします。結果として、児童文学としても評価を受けた作品であり、これで八束澄子さんの新しい時代がきたという印象もありました。エンターテイメント性がある一方で、児童文学としての心の動きの捉え方や、物語を通じて成長していく主人公の姿、人と人との関わりなどを捉える筆致は健在で、ここに新しい世界が広がっています。完全な人間はいないし、足りない部分を補いあって、人は生きています。立派である必要はないし、致命的な失敗もまた赦される日がくるのかも知れません。児童文学が許容する「正しさ」の裾野が広がっていく可能性を感じさせる一冊です。