![]() |
出 版 社: 小学館 著 者: フィル・アール 翻 訳 者: 杉田七重 発 行 年: 2024年04月 |
< アドニスの声が聞こえる 紹介と感想>
ゴリラは、あの強面や体躯から獰猛であろうと思われがちですが、実際は温和で争いを好まない気性だそうです。映画『猿の惑星』ではゴリラが武闘派で、チンパンジーは温厚な知性派でしたが、実際は逆で、そのあたりをちゃんと考証して製作されたのが日本の特撮ドラマ『猿の軍団』なのだそうですが、どちらにせよ、高度に進化した猿に人間が支配された未来の話です。現代では、猿に限らず、動物が何を考えているかなど、わかりようもないのです。それでも人は動物に自分の思いを仮託して、心を共鳴させることがあります。動物園から動物を放つ、という青春の衝動の物語がいくつか思い浮かぶところですが、動物側の意志を尊重したものではなく、おおよそ人間の勝手な配慮によるです。誇り高い勇壮な動物が惨めな境遇にいる、なんて思い込みは、いい迷惑でしょう。それでもかすかに心が通じて、相互に理解者になったような気がする。その瞬間のスパークは鮮烈です。本書は動物園のゴリラと少年の交流を描いた物語です。そこだけ書くと『おりの中の秘密』が思い出されますが、状況はかなり違っています。物語の結末もこちらは悲痛の極みであり、だからこそ残される想いの深さには特筆すべきものがあります。心に痛手を負っている孤独な少年というものは、世間に背を向けながらも、何かを渇望し、希求しているものです。それは安易に満たされるものではないし、本人も頑なで、人が向けてくれた好意を素直に受けとることも難しいのです。だけれど、動物には心を開ける。ここに、人はなぜ動物に癒されるのか、という命題が大きく関わってきて、織りなされた複雑な心境が垣間見えてきます。動物に向ける人のまなざしこそが、その人の心の裡をあらわすものかもしれません。本書もまた少年がゴリラに寄せる想いに、少年自身が浮かびあがります。
第二次世界大戦下のロンドン。この時代の子どもたちは戦禍を逃れるため田舎に疎開するものですが、十二歳の少年、ジョーゼフは逆に田舎から一人でロンドンにやってきました。カッとしやすく怒りの衝動を抑えられない手がかかる子を、彼を一人で育てる祖母はもてあまし、知り合いの女性であるミセスFに託したのです。見知らぬ土地でジョーゼフは戸惑い、さらに怒りをたぎらせることになります。心を病んだ母親とは幼い頃に別れ、父親は兵士として出征し、祖母とは反りが合わない。ミセスFもまた、きつい顔をした気難しそうな年配の女性で、ジョーゼフはなじむことができません。彼女は動物園を経営していましたが、この戦禍で閉園を余儀なくされたため、他所の動物園に動物たちを受け入れてもらっていました。引き取り手がおらず残されたのは、数匹のオオカミたちと、老いたシルバーバックゴリラのアドニスです。ジョーゼフはこのゴリラの世話をミセスFに命じられます。かつては妻も子もいたこの牡ゴリラは、今は一人、孤独をかこって生きていました。動物の世話をしながら、学校に通うことになったジョーゼフは、さっそく意地悪な少年たちと諍いを起こします。また彼には文字を読むことができない学習障がいがあり、その状況は誰にも理解してもらえません。空襲で両親を亡くした孤児でありながらも気丈で、動物園を手伝いにきている少女、シドに厚意を寄せられながらも、心に淀む思いに怒りを募らせているジョーゼフ。しかしやがて、空襲で動物園が破壊され、ゴリラが町に放たれてしまった場合の危険を回避するために、アドニスを殺処分にしなければならないミセスFの苦衷を知ることになります。アドニスの引き取り手は見つからないまま、勧告されたリミットは迫ります。一方でジョーゼフの学校生活も多難です。教科書の音読のテストを苦肉の策で乗り切ろうとしたことが仇になり、校長に厳しい体罰を与えられそうになったジョーゼフを救ってくれたのは、意外にもミセスFでした。ミセスFの過去にあった心の痛手を知ったジョーゼフは、彼女のために親近感を抱いていたアドニスを自分で手にかける決意をします。戦下の理不尽な状況の中で、少年がゴリラと、そして人と、心で繋がっていく姿が胸に沁みます。
児童文学やヤングアダルト作品でよく扱われる題材が散りばめられています。「怒れる少年」の物語はアンガーマネジメントで怒りを鎮めることはできず、その根源を遡ることになるのが常套です。「心を病んだ親」に見捨てられた思いや、彼自身が「ディスレクシア(学習障がい)」があり、それがまだ一般に理解されない時代であったことが影響しています。愛する父親は戦地へと連れ去れ、誰にも心をゆるせないまま、見知らぬ土地で暮らすことになった少年を庇護してくれるのは、気難しそうな「年配の独身女性」です。そこに戦禍や学校でのいじめなど、手元のカードは増えていきます。こうした窮状を踏まえた上で、老ゴリラに向ける少年のまなざしが、寡黙のうちに雄弁に語っていくものがあります。「戦下の動物たち」というカテゴリーには多くの物語があるものの、いずれも悲痛で、あえて括りたくないものです。動物たちを不幸にしたのは人間の罪業です。それを戦争を始めた為政者ではなく、動物に関わる庶民が引き受けなければならないのです。特に無力な子どもがその理不尽に直面するところは見るに偲びないものです。本書の結末はその最悪のパターンです。それでも物語の救いが、僅かながらもたらされます。これも上記のジャンルが迎える帰結の複合パターンではあるのですが、ごくささやかなカタルシスでも読み進められる力を与えられます。結末まで目を背けない勇気を、読者もまた問われています。自分の親も心を病んでいて、子ども時分、主人公の少年と似た境遇にいたのですが、それを怒りに変えることもできないまま、ただ受け身をとっていました(いや多分にパンチドランカーでした)。客観的には不憫に思いますが、当事者的には意外に自分を憐れむようなことはなかったかと思います。ただ打ちのめされていたからです。それはそれで歪なメンタリティーであって、メンタルケアのない時代の不幸を思います。怒りとしてでも表出できたなら、もう少しマシだったかと思うのです。やりどころのない想いは、何に託したら良いのか。そこに乱麻を断つ正当はないと思います(今ならセラピーやカウンセリングや化学療法もあるのかもしれませんが)。だからこそ物語が与えてくれる救いについて思いを巡らせるのです。
