きつねの橋

出 版 社: 偕成社

著     者: 久保田香里

発 行 年: 2019年09月

きつねの橋  紹介と感想>

否定的な言葉が反語として肯定的に作用することがあります。シチュエーション次第ではあるものの、「ワルい人」なんて言い方が伝えるサムシングは、言葉通りの意味だけではありません。「ヤバい」という江戸時代からある言葉でも、現代での扱われ方を見ていると、込められる意味の変遷に面白さを感じます。さて、ここでとりあげたいのは「ズルい」についてです。これを漢語で「狡猾」と書いてしまうと意味が明解になりますが、和語だとなんとなく含みがある、というのが、逆になんだか良いのです。ちなみに英語の「FOXY」は、きつねのような、という表現ですが、狡猾でズルそう、という意味と同時に、魅力的なというニュアンスも含むそうです。それがキツネっぽいということなのか。さて、この物語には、そんな「ズルい」キツネが登場します。狡知に長けていながらも同時に「誠実」であるという、実に複雑で魅力的なキャラクターです。さらに妖力があって、人を惑わせる。平安時代中期、十世紀末の薄暮れには、こうした人智を越えた妖異もまた平然と跋扈していました。平安の貴族社会が最も華やかであった時代。貴人に仕え、武功をあげようとする少年が、とあるきっかけから、妖狐と出会い、不思議なパートナーシップで結ばれる奇縁を描いた物語です。この両者の関係性の妙といい、物語の展開の面白さといい、簡潔なのに豊かで鋭い文体といい、すべてにおいて切れがある作品です。歴史物であり、ファンジーであり、バディ物であり、成長物語でもある。わくわくするような読書時間を味わえるジャパニーズファンタジーの白眉です。眉に唾をつけて、この魅惑的な物語を見極めてください。いえ、だまそうとしていませんから、ご安心を。

ひとり故郷の地方を離れ、京の都で貴人の郎等として仕える少年、平貞道。その胸には武功によって身をたてようという野心が抱かれていました。とはいえ、なかなか活躍の機会は与えられません。主人である源頼光には多くの郎等がおり、そこで群を抜くには、それなりに目立たなければならないのです。鼻っ柱強く、ひとりで高陽川の橋の上に現れて人を化かすというキツネを退治することを請け負った貞道でしたが、意外にも苦戦することになります。それでもなんとかキツネを捕らえ屋敷に連れ帰った貞道は、思いもよらずキツネに感謝されることになるのです。ここから、この葉月と名乗る化けキツネと貞道との不思議な友誼が結ばれていきます。とはいえ、相手は人を騙すことに長けた妖です。両者の関係にはどこか緊張感があり、そこに魅力的なドラマが織りなされていきます。貞道は、時に葉月に助けられ、武名を上げていきます。時にはしくじり、父祖伝来の大切な刀を盗賊の頭目、袴垂に奪われたりと、苦汁を舐めることにもなります。一方、キツネの葉月にも大切に守っているものがあり、その願いのために貞道が一肌脱ぐことにも。それぞれのエピソードの歯車が巧妙に噛み合い、加速しながら進んでいく物語の痛快さ。時の都の政治情勢や権力争いの狭間に揺れる人々。貞道は、平安時代有数の権力者として台頭する以前の、少年である藤原道長の警護をすることにもなりますが、まだこの時には確定していない未来が、可能性の状態でここにあることに胸が踊ります。後に源頼光家臣の四天王の一人として、大江山の鬼退治などで勇名を馳せたと伝えられる平貞道の若き日々を描いた冒険の物語。文句なしの面白さをお約束できる作品です。

さて、この物語に文句がつくとすれば、主人公である貞道が、物語を通じた最大の敵であり、何度も煮え湯を飲まされてきた盗賊の頭目、袴垂との最終対決を「棒に振る」という展開です。自分が直接切り結ぶことはなく、他の皆さんにその対決を委ねてしまうのです。なんという拍子抜け。逆に言えば、この意外な展開は意外ではなく、この物語の真意ではないかとさえ思うのです。主人公にとって一番大切なものはなんだったのか。勇猛果敢に戦い、名を立てることを第一に考えていた貞道に、物語を通じて生じていた変化の集大成のようなクライマックスではなかったかと考えさせられます。それを納得するに十分なものが、ここまでに育てられた葉月との関係性です。葉月の中にある「誠実さ」や、誰かを思い遣る気持ちに貞道が気づき、次第に動かされていく、その心の変化が、通常のクライマックスのセオリーを覆すという驚き。ともかくも、貞道と葉月の、決して馴れ合うことのないパートナーシップと信頼関係に、酔わされた物語です。実に甘くない。いや、これもまた反語です。研ぎ澄まされた文体。その表現には無駄がなく、流れるように読み進められ、また少ない言葉での会話には余韻があり、それぞれの胸の裡を想像させられます。この物語、宝塚歌劇団が演目にしたら良いのになあと思ったのは、このところ『白鷺の城』や『義経妖狐夢幻桜』ような妖狐モノがいくつかあったからか。貞道の仲間となる、弓の名手、季武や、葉月が仕える高貴な斎院の姫など個性のきわだった脇役たちも魅力的で、男役と娘役のバランスもちょうどいいんですね。ヒロイン葉月には、演技巧者の音くり寿さんがうってつけで、となると花組の別箱公演で、主演は誰がいいだろうか、なんて、そんな妄想も楽しんでいます。