カーネーション

出 版 社: くもん出版

著     者: いとうみく

発 行 年: 2017年05月


カーネーション  紹介と感想 >
自分には笑いかけることがない母親。その微笑みは、幼い妹にだけ向けられています。いや、妹が生まれる前から、母親の自分ヘの態度は普通の親とは違っていると日和(ひより)は感じていました。心を引き裂くような、あの冷たい言葉や態度。中学生になった日和は、母親との関係性をはっきりとさせようとしていました。自分は「嫌われている」のだと。それがわかっていても、本当は母親に嫌われたくはないのです。母親の機嫌を損ねないように気をつけながらも、日和の足りない言葉が気まずい空間をより重苦しくしていく。張りつめた母娘間の空気に緊張感がかもしだされる、そんな家庭。実に、いたたまれない。物語は日和と、どうしても娘を愛することができない母親の愛子の主観から交互に語られていきます。何故、娘を愛することができないのか。それは愛子の心に、払拭できない枷やくびきが潜んでいるからです。双方の心情が余すところなく説明されていく中で、中立の立場にいる読者は、まるでケーススタディのように、この事態の最適解を考えさせられます。そして、最終的にこの物語が出した結論を、妥協点として前向きに受け入れることになります。正解がない荒野で、それでも家族が先に進んでいくために。苦渋の選択が光を放つ、物語が描きだす新局面に注目です。

フラットに考えると、やはり母親の愛子のメンタルがおかしいのだと思います。暴力を振るうわけでも、罵しるわけでもない。それでも、緩慢な虐待を娘に加え続けている。こうした異常な状態に父親や周囲の大人たちも気づいていながら、デリケートな問題であるために逆に触れられないという悪循環。「アンタたち、いい加減にしな!」と一喝してくれる、無神経だけれど、善良なお節介やきの近所のおばちゃんは不在のリアルワールド。無論、核心はもっと根深いところにあります。母親の愛子は子どもの頃に衝撃的な事件を体験していますが、当時のメンタルケアが不十分であったために、そのツケがまわってきている可能性が考慮されます。心を病んでいる親に育てられる子どもは確実にいて、そこに家族としてのあるべき姿をあてはめようとすると、所謂、「理想」に疎外される状態になります。家族は仲良く、愛し合って、一緒に暮らさなくてはならない。実際は、そうでもないんだよ、と言ってもらえることで、ほどかれる呪縛もあるかと思うのです。児童文学には追いつめられた子どもたちの心に寄り添い、もっと安らかに生きられる世界を見せて欲しいと願っています。この物語が描き出した結論は、「理想」に負けることなく、日和を守ってくれたのだと思います。日和の壊れそうな心を支えてくれる友人が配されていたことも、この過酷な物語を読み進める力となりました。全方位配慮で逆に非力になってしまう大人ぶりへの反省もまた思い知ったところです。なかなか一喝することはできないものですね。

親には愛されたいし、褒められたい。とはいえ、自分がそれに適う人間なのかと自問してしまう。いや、親というのは無条件に子どもを愛するものでは。いやいや、そんなことはないのだと、葛藤に苦しんでいる人もいるかも知れません。自分はすでに両親がいないので、寂しさ半分、どこか安堵もしているような現在です。兄弟姉妹との親からの愛情の差が、人間の生き方を左右することがあります。物語の常套は、無条件に愛される末弟や末妹に対する、良くできた長兄、長女の嫉妬です。逆に末っ子だった自分は、成績優秀だった兄に比べて、劣った子だと親に諦められているのだろうなあ、という漫然とした失意をずっと抱いていました。まあ、期待はされていない。ただ、愛情には色々な形があって、期待する愛もあれば、諦めつつも見守っていてくれる愛もあるのだと、そんなふうに感じています。亡くなる前に、もうちょっと良いところを見せたかったな、という後悔もあるのですが、駄目なりに大目に見てもらって、愛してもらえた、ということに感謝すべきかと思っています。愛情の形はひとつじゃないし、家族には色々な寄り添い方があるのだと、この物語の教えてくれたことを、今更ながら噛み締めています。