アラバマ物語

TO KILL A MOCKINGBIRD

出 版 社: 暮しの手帖社

著     者: ハーパー・リー

翻 訳 者: 菊池重三郎

発 行 年: 1964年


アラバマ物語  紹介と感想 >
その左手で女性を殴り、暴行したとされて捕まった青年。彼は子どもの頃に大怪我をしたために左手が不自由で動かすこともできません。それなのに、事件の犯人だと断定されてしまったのは、被害者の女性、十九歳のメイエラ・ユーイルの一方的な訴えによるものです。証人はメイエラの父親だけで物証もない。そんな不合理な状況証拠のみで青年が犯行に及んだと認められてしまうのは、彼、トム・ロビンソンが「黒人」だからです。1935年。アメリカ南部、アラバマ州メイコームは一種の階級制度がある排他的な田舎町。ここで立派な人と呼ばれるのは、良識にもとづいて最善をつくす人ではなく、良い家柄に生まれた人のことでした。人には違いがある。だから人種で人を差別することは当然のこと。弁護士であるアティカスがトムの無実を合理的に証明したところで、陪審員たちの判断を覆すことは難しい。有罪となれば、電気椅子による死刑がトムには待っています。その命を救うため、この勝てる見込みのない裁判をたたかう弁護士アティカスの姿を、娘のスカウトの視点から描く物語です。ピューリッツァー賞を受賞した世界的ベストセラー。後の児童文学の中でも引用されることが非常に多い作品です。世間に流されず「公正」を貫く、この物語のスピリットは、現代にも脈々と受け継がれています。

100ページ過ぎまで物語は動かず、舞台となるメイコームの地域特性を、子どもたちのエピソードを通じて紹介する導入部分となっています。善良ではあるが、偏狭でもある大人たちが暮らす町。一様に貧しく、弁護士や医者も、そんな人たちから高額な報酬を受け取れるわけもなく、同じように暮らしに窮しています。貧しい人たちの弁護をしながら、男手ひとつでジェムとスカウトの兄妹を育てている実直な弁護士、アティカス。弁護士というものは、その商売柄、一生に少なくともひとつは、やむにやまれぬ事件を手がけるものだと、彼は語ります。黒人の青年が、白人の女性を暴行したとされるこの事件が、まさに彼にとって人生の試練となるものでした。子どもでさえ、ごく自然に黒人を「二グロ」と呼ぶ社会。「黒んぼ」と蔑称されている黒人をかばうアティカスは、「自分は正しい思っている」人たちを敵に回しながら、真に「公正」であろうとし続けます。息子のジェムは裁判の行方を見守りながら、あまりにもこの世界が公正ではないことに悲しみを覚えます。本当の犯人であるかどうかは問題ではなく、トムが犯人であることが事件解決の適当な落としどころになるという成り行き。世の中というのはそういうものだと嘯く大人たち。そんな世界で敢然と「公正」であることを貫こうとする父親アティカス。その姿を目に焼きつける子どもたちが、胸に宿す光こそが未来への希望だと思うのです。

貧乏と無知の犠牲者は黒人青年トム・ロビンソンだけではありません。トムを訴えたメイエラ・ユーイルと、その父親もまた、社会の底辺で喘いでいる人たちなのです。ゴミ捨場の裏に住み、働くことをせず、貧民救済の小切手を呑んでしまうような暮らしぶり。彼らがトムを訴えたのは、社会の中で自分たちの居場所を見出そうと画策したためです。黒人たちの無知につけこむ「低級な白人」への怒りをアティカスは隠そうとはせず、彼らから個人的な恨みを買い、さらに悲劇が生まれていきます。人種で人を差別してはならないように、こうした「どうしようもない人たち」とも共生していくのが、社会というものです。歪んだバランスによって保たれている社会の歪みのしわ寄せは、より弱い者へと向かっていきます。互いを排斥するのではなく、平等に共生するために、人間は「公正」でなければならない。しかし、「公正」とは、身びいきをせず、身内の罪でさえも等しく裁いていくことでもあるのです。物語は難しい局面を見せつけていきます。読者もまた、流されずに「公正」でいられるかどうかが問われます。現代のアメリカの人種差別や公民権運動を描いた物語(直近では『ザ・ヘイト・ユー・ギヴ』など)にも『アラバマ物語』の精神は受け継がれていると思います。この物語の舞台となった時代や、書かれた頃よりも、社会や人間の精神はどれほどの成長したのか。それを見極めるためにも、名作を読み継いでいく意味があるはずです。