僕には世界がふたつある

Challenger deep.

出 版 社: 集英社 

著     者: ニール・シャスタマン

翻 訳 者: 西田佳子   金原瑞人

発 行 年: 2017年07月


僕には世界がふたつある  紹介と感想 >
精神疾患のある人がこの世界をどう見ているか知りたいですか。よほど奇特な方でもないかぎり、答えはノーだと思います。僕は心療内科に通院したり、向精神薬を飲み続けている人間なので、バッドなメンタルの時の世界感覚は少しはわかるし、ごく普通の人が近寄るべきものではないと実感しています。この物語は精神疾患のある少年の妄想世界が一人称で語られていきます。怖い、と思ってしまうのは、異常に振り切った部分よりも、正常と異常の境界の曖昧なところです。たとえば水玉模様のあるピンクの象が見えるようになったら、さすがに自分はおかしくなっていると確信できるかと思いますが、人の悪意をすごく感じる、程度の場合、事実、悪意を向けられていこともあるので、妄想かどうか判断できないわけです。だからといって、ラジオから自分の悪口が流され続けていることだってあり得ないことではない、とか言い出すと、どうかしてると思うでしょ。いつの間にか境界線を越えていて、あちら側の世界に行っているのに気づかないことがあって、それがどうにも怖いし、悲しいのです。僕の信条は「まとも」とか「普通」という立ち位置から物を言わないようにすることです。かと言って、「猫の忍者に生命を狙われている」と怯えている人には共感しかねるし、治療をおすすめすると思います。それでも一刀両断に「どうかしてんじゃないの?」とは言いたくない。妄想もまた、本人にとっては切実な現実です。理解することはできないけれど、歩み寄ることはできます。この物語は理解できません。熱のある時に見る悪い夢のような、丸々一冊、そんな感覚なのです。ただ、こんな世界を生きている人もいるのだと感じて欲しいし、歩み寄ってもらえたら、とも思います。

タイトルの通り、主人公のケイダンは二つの世界を同時に生きています。困ったことに、どちらの世界でも彼は幸せではありません。かたや友人たちとゲームを作ろうなんて計画をしていた十五歳の少年としての、ごく普通の学校生活。かたや海賊船の乗組員として、片目の船長に監視され、理不尽な指示ばかりをくだされている船員生活。海賊船は、無論、妄想です。船長やしゃべるオウムに振り回されながら、どこかに向かっているケイダン。同時に、現実の学校生活の方も次第におかしくなっていきます。誰かが自分を殺そうとしている、などと言い出すようになれば、家族や友人たちもケイダンのおかしさに気づきます。ケイダンは入院させられ治療を受けることになり、九週間を経て退院します。端的に言うとそれだけの物語ですが、驚きに満ちたケイダンのインナーワールドが語られ、そこにある不思議なセンスには惹きつけられます。海賊の世界はどこか寓話めいて、登場人物たちも何かを象徴しているようです。機知に富んだワンダーワールド。しかしながら、条理のないエピソードの羅列であり、読み続けることには集中力を要します。けっこう辛い読書になることは覚悟が必要かと思います。

船員であるケイダンは、最期に海の深淵を目指して深く潜行していきます。「深淵を覗く」という行為は、ひとつの象徴性を持って語られます。それはケイダンが入りこんでいく「闇の奥」であり、そこに飲み込まれてしまう寸前の状態なのです。いわば、行くところまで行ってしまう、妄想の果ての世界。それに対峙するにはどうしたらいいのか。この物語には精神疾患のある人を見守る家族の視線がベースにあります。心の迷妄を理解し、ケイダン自身の深淵を覗こうとする歩み寄りの姿が、この作品を成しています。作者は、精神疾患 (統合失調症なのかな) に苦しんでいた自分の息子さんの内的な世界を聴き取り、この物語に反映させています。つまりは、深淵に飲み込まれていく家族の手を離さず、心を添わせる行為が、この物語自身の姿でもあるわけです。ごくあたりまえに考えると、妄想は理解されません。ただ悪夢にも少なからず遠因があります。理解は不能であっても、それに歩み寄ろうと周囲の人間もチャレンジできる。読者として、そこに参画することもまた興味深い行為かも知れません。いや、まあ、すごく大変なんだけれども。全米図書賞児童文学部門受賞作です。