スモッグの季節

出 版 社: 理論社 

著     者: ならしまとしお

発 行 年: 1973年01月

スモッグの季節  紹介と感想>

「スモッグ」というと、1970年代に子ども時代を送った自分には「光化学スモッグ」が思い出されます。校庭で遊んでいると「光化学スモッグ注意報」の校内放送があって、屋内に避難しなければならないことが頻繁にありました。というのは、自分が暮らしていたのが、国道と首都高速が間近に走っているような都心部で、非常に空気の悪い地域であったからです。大気汚染がそこまで進んでいたというディストピア的な過去の情景なのですが、わりと陰鬱な印象しかない自分の子ども時代を彩るというか、塗りつぶす象徴的なものではあったかなと思っています。「光化学スモッグ」は特に黒くはないのですが、明るい思い出ではないのですね。そうした状況下で穏やかな子ども時代が醸成されるものかどうかは、まあ本人次第か。そんな時分よりも少し前、この物語は最初の東京オリンピックを翌年に控えた年を舞台にしています。となると1963年なのですが、さらに時代は険しい顔を見せています。道路を掘り起こし、ダンプやブルドーザーが埃をたてて走り回る、急激に進む都市開発の喧騒や工場からの公害が蔓延していく、まさに「スモッグの季節」です。読んでいて驚いたのは、主人公が通う中学校が、名前は違うものの、おそらく自分の通っていた中学校がモデルなのではないか、というロケーションでした。実際、後書きで作者が教員として自分の出身中学校に勤務されていたことが書かれていて腑に落ちました。前述したように、わりと荒んだ環境だったのです。東京ではあるけれど、下町的な人情があるわけではなく、山の手の上品さもなく、豊かな自然もなく、貧しさもそこかしこに垣間見える殺伐とした都心部の姿が、ここに描かれています。自分が中学生だった頃より20年は前の時代が舞台なので、随分と文化的な違いはありますが、この愛を抱きようがない地元感覚は特有のものかなと。この物語のベースに流れる薄暗さは、「貧しくてもおおらかに生きる」子どもたちを描いた同時代の作品とは対極にあるものだと思います。本の冒頭に、編集部による、この作品を児童文学として(何年かの逡巡を経て)刊行することについて決意宣言がなされていて、並々ならぬ覚悟を感じるところですが、それだけでも、かなり奇異な作品であることが想像できるのではないかと思います。

かつてクラスのボスとして我が物顔で振舞っていた、中学二年生のオンちゃんこと恩太郎。ところが子分たちの反乱にあい、突きあげられて、ボスの座を下りることになります。その横暴ぶりが目に余ると、徹底糾弾されたのです。人にイヤなことをしていたのだと、さすがにオンちゃんも思い知るところになりますが、心を入れ替えるわけでもない。教室で居場所を失ったオンちゃんでしたが、真面目な生徒たちともつきあうようになったり、新たなボスグループにも絡まれたりしながら、学校生活を送っています。オンちゃんが中学卒業後に高校に進めるかどうか、微妙なところにいるのは、家が貧しいからです。臨時工の父親は戦時中、南方にいて商売をしていたものの終戦で何もかも失い、引き上げ船では三人の子どもを失いながら命からがら日本に戻っていました。家族六人が八畳間の一室で暮らしている引き揚げ寮。姉たちも中学を出てすぐに就職しています。やはり将来に希望の見えないオンちゃんの情動は安定しません。「オリンピック」が東京中を荒らし続ける息苦しさは、彼の孤独感や疎外感に拍車をかけます。真面目に勉強をしてみたり、意外に自分にも才能があることを人に認めてもらっていることを知ったり、駅伝で優勝したりと良いこともあるものの、荒んだ空気がオンちゃんを浸食し続けます。新聖会という学校内を牛耳っているチンピラグループに入ってしまったのも、心の隙間があったからです。やがて、暴力団の先棒を担ぐようなことになり、大きなトラブルに巻き込まれていくオンちゃん。社会全体が貧しく、大人にもコントロール不能な荒んだ空気の中、スモッグに包まれたような黒い世界で子どもがどう生きていくのか、オンちゃんの自意識が活き活きと描かれた野心作です。

オンちゃんは悪びれもせず、万引きもすれば、人をいじめもします。一方で暴力が蔓延する学校を浄化しようとする動きに対しても、賛同する様子が見えます。自分が悪事に加担しながらも、社会悪を憎んでいる心性はアンビバレントというわけでもないようです。彼なりに正義や公正さを求める気持ちが垣間見えるところが、勝手ではあるものの、人間らしさなのかと。歪んだ社会が矯正され、みんなが幸せに暮らせることができれば良い、というのは、現在、ワルに傾いているオンちゃんだって思うところなのです。描き出される大人たちもまた、この社会の中で汲々としていて、工場労働者たちは不当労働に抗議し、それを経営者が汚い手を使って弾圧し、警察もまた乱暴な取り締まり方で対処しているような状況です。開発と進歩の副産物あるスモッグは善悪を溶け込ませます。つまりは、社会全体が「スモッグの季節」の中にいるのです。戦後20年が経過していない時代です。焼け野原だった東京。砲兵隊の練兵場だった跡地に建った中学校は三棟のバラックで、体育館もプールもありません。かつて兵舎だったところに引き揚げ者や焼け出されて家のない人たちが住んでできた町。急速な復興に、オリンピックによる開発、高度成長の余波は公害などの社会問題を生んでいます。荒廃した土壌ではあるのですが、それでも、人が正しさや公正さを求める気持ちもある。自分にとっては地元の、知るよしもなかった過去の情景なので、より考えさせられるところがあった作品です。地元愛が非常にない自分自身に、なんとなく説明がついたような、そんな感覚もありました。そんな故郷もまたあるものです。