出 版 社: 集英社 著 者: アディーブ・コラーム 翻 訳 者: 三辺律子 発 行 年: 2020年12月 |
< ダリウスは今日も生きづらい 紹介と感想>
「気まずい関係」というのは、互いに気まずさを抱いていることで成立するものです。この物語の主人公の少年、ダリウスは、人に対して一方的に気まずくなり、いたたまれなくなってしまう手に負えない気質です。どうしたわけか、人から、いらない存在だと思われていると感じとってしまう。自ずと人には遠慮がちとなり、謝ってばかりいます。それでは親しい友だちもできるわけもなく、孤独感を深めていくことになります。家族に対してでさえ、引け目を感じてしまい、コミュニケーションもぎこちなくなっていくのです。そんな少年のフィルターを通して見た、歪んだ世界が描かれる物語です。健康な人からすると、どうしてそんなふうに考えるのかと思うような思考パターンを見せられ続けるわけで、かなりしんどい読書になると思います。主人公のダニエルは、抑うつ状態にあります。要は、鬱病です。 僕も一時、過度にそうした状態になったことがあり、今も通院と投薬を続けているので共感があります。疎外感は強いし、自分の感情はコントールできないし、捨て鉢になりがちで、建設的な気持ちになれません。理解されにくいのは、その状態と仕事への意欲や能力は別なのです。逆にそこで仕事を奪われると、余計、自分の役立たず感が増してきて、墓穴を掘ることになり、墓穴に入ることを選ぶ人もいます。なので、見た目の行動力と矛盾したところがあるので、余計、人にはわけがわからなくなるはずです。実際はどうかということは置いておいて、自分が出来の悪い人間で愛されていないなどの、最悪な気分に支配されているので、気分障がい、という言い方もされます。ある意味、自分勝手なのです。周囲が楽しい気分でいるパーティで、勝手に自分だけ居場所がないような気がして不機嫌そうな顔をしている(僕も大人数の宴会に出るとたいていこうなります)。これを「生きづらい」と呼ぶのは、現実的に逼迫した生活を送っている人に申し訳ない気がするわけですが、本人にとっては切実です。この状態からの活路はどこにあるのか。そうした気質の人間もまた、より良く生きることができるはずなのです。とはいえ、この物語は、鬱病のケーススタディではなく、一人のちょっと変わった少年の心の成長譚として読んでもらえると良いかなと思います。ここには、大切なものと出会っていく心の慄きが凝縮されているのです。
白人の父親とイラン出身の母親を持つ少年、ダリウス。オレゴン州ポートランドの高校二年生である彼の学校での「社会的地位」が複雑なのは、母親ゆずりにカールした髪の毛のせいか、ちょっと太った体形のせいなのか。名前をもじった酷いあだ名つけられたり、揶揄われ、やたらとちょっかいを出される。父親には、そうした子たちに立ち向かえばいいと言われるけれど、ダリウスは自分に自信がなく、この立場を受け入れざるをえないのです。アーリア人系の秀でた容姿をした父親の形質を継いでいない自分。父親を失望させてばかりいることをダニエルは気に病んでいます。毎晩、父親と一緒に一話づつ『スタートレック』のテレビシリーズを見ることだけが、父子のコミュニケーションのように感じているダニエル。親しい友だちもおらず、家族にも引け目を感じている、その心の状態は、実際、鬱を病んでいて、悲観的に物事を受け止めがちなのです。そんな折、母方の祖父が脳腫瘍を患い、先行きが長くないことがわかります。ダリウスは両親と妹とともに、今まで、スカイプでしか顔を合わせたことのなかった祖父母の住む国へ行くことになります。さて、イランでのダリウスは、その心境が劇的に変わることもなく、祖父母に対しても、うまく打ち解けることができません。それでも、祖父母の家の近所に住む少年、ソフラープと親しくなったことで、次第にその心持ちに変化が兆していきます。鬱病という状態を、イランの人たちに理解してもらえないまま、それでもダニエルはダニエルとして受け入れられ、心を通わせていけることに気づいていきます。祖父母や、初めて親友と呼べる存在となったソフラープとの心の交流は、自分の心の痛みだけではなく、人が抱いている苦しみや悲しみを掛け値なく受け止めることを教えてくれます。同じように鬱を患っている父親の抱いていた苦しみを知り、ダリウスは、歪みのある自分の認知スケールを越えて、生きていく手応えを掴んでいくのです。ダリウスをとりまく世界が変わったのか、ダリウス自身が変わったのか。生きづらさを越えていく姿に希望を抱かされます。
民族的なアイデンティティや、まだ顕在化していないセクシャリティの問題など、語るべきテーマの多い作品ですが、やはりベースにあるのがダリウスの鬱です。「スタートレック」や「お茶」にマニアックな関心を寄せるユーモラスな一面が、その深刻さを中和して、読み続ける勇気を与えられます。人の心の動きは脳内物質の分泌や作用によるところが大きいものです。これは極端な言い方ですが、セロトニン不足によって引き起こされる不調が、気持ちに影響を与えることを考えると、人の心は脳のコンディション次第なのだと認めざるを得ません(文学的なスタンスからは難しいところですが)。ただ、これは治療により改善されます。化学療法は、十代には悪影響を及ぼすことも多いらしく万能ではありません。ではそうした脳の不調に打ち勝つ方法はどこにあるのかと考えます。認知療法は、歪んでしまった自分の認知のスケールを経過的に捉えていくもので、自分の気分を客観的に把握することができます。とはいえ、この闘いは過酷なものです。自分で自分の感じ方や考え方を矯正するのですから。ダリウスのように、幸運にも、良い家族に恵まれている人なら、自分に注がれている愛情に気づくことで世界をすこし変えていくことができるでしょう。物語の終わりに、アメリカに戻った彼がサッカーチームのトライアウトを受ける気持ちになれたのも、小さな自信回復の成果であり、そこから始まる未来には希望の予感を抱かされます。僕も時々、克己心がわく時があって、公募に応募してみたり、こうしてサイトを作って、レビューを書いてみたり、フリーペーパーを出してみたりしています。ごくささやかな一歩ですが、やらないよりはやって良かったと後で思える程度の自信回復にはなっています。メンタルダウンによる思い込みではなく、実際、周囲に愛してくれる人が誰もいない人もいるのだと思います。それでも生きづらさなど感じずに、悠然と生きていくことはできるはずです。そのためには小さくても何かを積み上げなくてはなと思います。本を一冊読むごとに、パワーアップしている気はしているのですが、これも気のせいか。まあ、大抵のことが気のせいです。気楽にやりましょう。