トンヤンクイがやってきた

出 版 社: 新日本出版社

著     者: 岡崎ひでたか

発 行 年: 2015年12月

トンヤンクイがやってきた  紹介と感想>

日本軍が中国侵攻で行った残虐行為について書かれたルポルタージュ『中国の旅』(本多勝一)を読んだのは、中学生か高校に入っていたか、ともかく15、6歳ぐらいの頃だったと記憶しています。既に著名な本であり、反戦教育に使われるにしても先鋭的な資料だったかと思います。その年頃の子どもにとってはインパクトが大きすぎる本で、虐殺や暴行など、その非道に憤るとともに、日本人はどうしてこんなことをやったのかと、人間の当たり前の倫理感など戦争という状況下では失われてしまうことに震撼したものです。その後、『中国の旅』は捏造とされる部分があると批判されていることを知ったり、中国侵攻における日本軍の虐殺や暴行についても、一部非行兵による悪行はあったものの軍が主導したものではないとか、針小棒大に喧伝されたものであるとか、様々な言説が耳に入ってくるようになりました。結局、真実はどうであったのか。中国に出征した当事者たちの多くが存命だった時代であっても、その真相が白日の下に晒されたわけではありません(1970年代の児童文学では戦中派の大人たちが、子どもたちの前では戦地のことは語れないとして沈黙を守る作品もあります)。広域で行われていたことは点では語れないとはいえ、はっきりしないままだと、未来に繋がらないものでしょう。今(2022年4月)、ロシアのウクライナ侵攻に際して、あれだけ多くの映像が拡散され、悲惨な状況が伝えられる一方、ロシア側からは全く違った解釈の報道がなされています。何を信じるべきか。リアルタイムで行われていることでさえ、見方や立場次第で事実が変容してしまうことを恐ろしく感じます。ここで戦争を描く物語の効用を思います。そもそも虐殺以前に軍事侵攻はどんな大義があろうと、ヒューマニズムの観点からは許されるものでありません。戦争を描く児童文学は、そこが基点です。自分の国に他国の兵隊が踏み込んでくる。その事態に対して抱かれる恐怖や憤り。その心の震えこそが真実です。子どもたちは、苦しい生活に耐えながら、戦いをどう見守っていたのか。本書は、中国の少年と日本の少年、離れた国で、それぞれ自分の闘いを続けた二人の視座から描かれる濃厚な作品です。2016年度の日本児童文学社協会賞受賞作。

1937年7月、盧溝橋で中国軍との軍事衝突を起こし開戦の火蓋を切った日本軍。上海から開かれた戦端はやがて拡大していきます。開戦の報は無錫に近い農村に住む少年、十歳のツァオシンの耳にも伝わってきました。トンヤンクイ(東洋鬼)と呼ばれている日本兵がこの村にも攻めてくるかも知れない。上海を制圧された中華民国軍は、蘇州を越え、南京に後退していきます。その道すじにあるツァオシンの村にも、ついに日本軍が姿を現します。兵隊ではない自分たちが襲われることはないと思っていたところに、銃撃が行われ、村には火がかけられ、妹一人を残してツァオシンは家族を失います。村は占領地域となり、日本軍の手先となった村の裏切り者たちが幅を利かせ、略奪と暴力による支配が行われるようになります。コメを日本軍に奪われて、人々が飢えていく困窮状態の中、やがて労働者や農民が集まり、新四軍という軍隊が編成され、長い持久戦が始まります。働いても働いても飢える寸前の生活に苦しみながら、この状況に耐え、農民の軍隊に希望を繋いでいく人々。軍隊にまだ入れないツァオシンもまた仲間たちとともに少年隊を作り、日本軍への抵抗を試みます。自分たちのコメを守り、敵から銃を奪う。作戦が上手く行っても今度は仕返しされることに備えなくてはなりません。日本軍に苦役を強いられながら耐えていくしかないまま戦争は長く続きます。日本軍の兵隊たちもまた、家族と離れて、狂気の戦場で死線をかいくぐっている。悪いのは戦争を始めて、人に命令し、安全な場所でぼろもうけをしている人間たちだ。成長し、考えを深めていくツァオシンは、人のいのちを守り、正義のために闘うことを誓いますが、周囲の大切な人たちはどんどん死んでいきます。それでも挫けずに、力を合わせ日本軍に抵抗を試みる農民たち。信じあえる仲間との絆が、勝利への道をツァオシンにも信じさせます。そしてついに1945年の夏、長きに渡る闘いの日々に終わりを告げる時がくるのです。

ツァオシンという中国人の少年の八年間の物語は、東京に住む武二という日中戦争開戦時に八歳だった日本人の少年の物語と並走しています。医師だった父親を早くに亡くし、母と兄と姉とともに祖父の家に身を寄せていた武二。中国での戦争も、悪い兵隊たちから困っている中国の人たちを助けているものだと信じています。大本営発表は日本軍の勇ましい活躍と作戦成功を伝え続けますが、次第に長引く戦争に物資は窮乏し、庶民の生活も圧迫され始めます。学校には軍人が常駐し、子どもたちには教練と軍国教育が施されるようになっていきます。そんな折、武二の母に国から召集がかかります。病院で看護婦長だった母は、外地の戦場に看護師として派遣されることになったのです。やがて兄も徴兵され、中国へ送られていきます。ここで、ツァオシンの物語との微かな交差点が生まれますが、武二とツァオシンはお互いを知ることはありません。軍事工場に通いながら、東京大空襲の戦禍により破壊された町を生き抜いていく武二。終戦の光が見えるまで、その長く苦しい闘いは続きます。1930年生まれの著者と同い年に設定されている武二の視線は、当時の日本の少年のリアルな感覚を描写します。戦地にいる家族を思い遣ることはあっても、中国人の少年がどんな辛酸を舐めているかなど、思いもよらぬところでしょう。それでもどこか、平和を希求する同じ人間としての共鳴はある。為政者の起こした戦争に翻弄されるのは大人も同じですが、その苦しみは子どもにとっては大きすぎるものでしょう。ごく普通の物語としては、ややバランスがとれておらず、半ばノンフィクションのような味わいがある作品です。ただこの当事者体験の臨場感(ツァオシンの物語は中国での著者の交流に基づいています)は、戦争に巻き込まれることのが、どれほど人を理不尽に傷つけるものを読者の心に刻むはずです。それにしても、戦時下の日本で、看護師の女性が召集されるという事態があったのだということを初めて知りました。子どもたちの母親が出征するという場面も初めてです。その時代の深層に近づくために、もっと多くを知らなくてはならないと思います。