美しき野生

LA BELLE SAUVAGE.

出 版 社: 新潮社 

著     者: フィリップ・ブルマン

翻 訳 者: 大久保寛

発 行 年: 2021年05月

美しき野生  紹介と感想>

「ライラの冒険」シリーズ全三巻の後続シリーズであり、前日譚となる物語です。これもまた三部作となるシリーズの開幕篇のようです。ともかく面白かった印象が残る「ライラの冒険」シリーズ(特に『神秘の短剣』が好き)なのですが、読んでから随分と時間が経ってしまい、レビューも書いていなかったため、記憶が朧げでした。本書を読んで、久しぶりに、あの世界観に触れ、再度、最初から読み返したい気持ちにさせられました。本書の舞台となるのは、『黄金の羅針盤』の十年前の「ライラの世界」のイングランド。多くの学寮が林立するオックスフォードにほど近いテムズ川の上流にある川辺の平穏な村が舞台です。ライラも生まれたばかりの赤ん坊して登場します。いわくつきの出自をもった赤ん坊であるライラと、そのダイモンであるパンタライオンは両親から離れて、この地にある修道院に預けられていました。そう、ここは全ての人間にはダイモンと呼ばれる守護精霊が常に傍らにいるのが当たり前の世界(パラレルワールド)なのです。子どもの頃のダイモンは姿が定まっておらず、気分次第で色々な動物や鳥や昆虫に変化します。人語を話し、人間の良き理解者でありパートナーでもある精霊、ダイモン。この存在と共にあることが、この世界では、人間であることの当たり前です。逆にダイモンと切り離された人間は異端の存在として敬遠されています。また、世界の真実を告げる「真理計」という機械の存在も謎めいて魅力的です。羅針盤のような円形の文字盤に三十六の図柄が配置され、そのうちの三つに針を合わせ問いかけると、もうひとつの針が真理の図柄を指し示すという、世界に六つだけ存在するという不思議な機械。この図柄の解釈を巡って、学者たちが研究を重ねています。ダイモン、真理計、そして別世界へとつながる粒子、ダストの存在。魅力的なメタファーが彩る物語の世界がここに広がっていきます。

遠くオックスフォードの学寮の塔群を望むテムズ川沿いにあるパブ兼旅館、鱒亭。この店の一人息子である十一歳の少年、マルコムがこの物語の主人公です。初中等学校に通いながら、家業を手伝う少年の楽しみは、自分のカヌー「美しい野生号」を操舵して川を往来することでした。オックスフォードに近い、この店には多くの学者たちが訪れます。パブで給仕をしながら彼らの話に耳を傾け、その学識に触れることが、聡明な少年であるマルコムのもうひとつの楽しみでした。とはいえ、おそらくは進学することも叶わず、店の仕事を手伝うことになるだろう将来もまた彼には見え始めていました。そんなある時、マルコムはパブを訪れた客である三人の紳士に、近くの修道院に匿われている赤ん坊のことを尋ねられます。その時は何も知らないマルコムでしたが、この赤ん坊ライラとその父親である有名な探検家アスリエル卿を巡って怪しい男たちが暗躍するに及んで、次第に好奇心を抑えられなくなっていきます。手伝いのために修道院にも出入しているマルコムは、親しいシスターを通じてライラとも面会を果たします。政権中枢機関であるCCD(規律監督法院)や秘密組織「オークリーストリート」の関係者、またライラを執拗に狙っている不吉な物理学者ボンヌビルなど、マルコムの周囲に不吉な影が兆し始めます。時に発生した大洪水によって、全てのものが水没する中、ボンヌビルに狙われているライラを守るため、カヌー「美しい野生号」で父親の元に彼女を送り届けようとするマルコム。ライラの冒険ではなく、少年マルコムのライラを守る冒険が繰り広げられていきます。

やはり『ライラの冒険』シリーズありきで、この後に続く壮大な物語を想起させられながらの鑑賞となってしまうところは否めません。『指輪物語』における『ホビットの冒険』が、後から書かれている状態なのですが、本書はまだまだ序盤という趣です。この世界の秘密に挑む、というよりは、巻き込まれたトラブルから逃れるために勇気を奮うマルコム少年の成長譚として楽しめる物語です。非常に聡明で好奇心の強い少年ながら、おそらくは凡庸なパブ兼宿屋の親父になるであろう将来が彼の目の前にあります。それを受け入れているマルコムですが、思いがけない出会いが、彼に新しい知の世界を見せていきます。オックスフォードの真理計の研究者であるハンナ・レルフと親しくなったことで、彼女から本を借りて読み知見を広げ、真理計などの人智を超えた存在を「探究する」スピリットに触れることになります。開明していく少年にこの後、どんな世界が待ち受けているのか、後続巻への期待が募ります。また、洪水の中をライラを連れての逃避行に同道することになった十五歳の少女、アリスとの関係性も読み応えがあります。マルコムの家のパブで下働きをしているこの少女は、皮肉屋で人をあざけるようなところがあり、マルコムを揶揄ったり嫌味ばかりを言う、まあ感じの悪い子なのです。ヒロインらしからぬ彼女の心の飢餓感やコンプレックスなどもまた読者には垣間見えるところですが、十一歳の少年はそんなこと預かり知らぬところでしょう。共に赤ん坊のライラを守り、危機を一緒に乗り越えていくことで、反目しあう二人に信頼関係が芽生えていくあたりグッときます。『ライラの冒険』シリーズにはスピンオフや後日譚の短編もあるそうなのですが未翻訳なのが悩ましいですね。