出 版 社: 早川書房 著 者: ダイ・シージエ 翻 訳 者: 新島進 発 行 年: 2002年03月 |
< バルザックと小さな中国のお針子 紹介と感想>
中国の文化大革命での知識人などの反革命分子への糾弾の激しさについては、現代史で勉強したことよりも、数々の小説や映画で知ったものが大きいです。学生の頃に見た『芙蓉鎮』など実に印象深かったですね。近年だと人気の中国SF小説『三体』で、文革で虐げられた人々が「人類なんてもう滅んだ方がいい」というぐらい失望したことが物語の基点になっているあたりにも根深さを感じました。糾弾された人たちが再教育として理不尽な目に遭わされたことも、物語の中で知るところでしたが、本書のように、まだ十代の少年たちも片田舎に幽閉され、過酷な労働を強いられる再教育を施されていたという事実があったことにも驚かされます。とはいえ、過酷でありながらも、どこかユーモラスな青春譜となっているのが本書の面白いところです。都会の知識階層である少年たちが、田舎の貧農たちが暮らす文化のカケラもない村で生き抜くためにどう振舞ったか。知性や教養なんてここではほとんど役に立たないのに、知識欲はあって、文学を欲してしまう。西洋文化の娯楽は一切、禁じられ、共産党政府のプロパガンダ映画しか目にすることができない中で、密かに、中国語に翻訳された世界文学の古典を読むことがどんなに愉悦であったか。文化的に不毛な極限状態での物語への純粋な欲求。一方で、教養のない美しい少女を教化しようとする上から目線の態度や、その傲慢さにはちゃんとシッペ返しがあるあたりも青春の一幕です。ちなみに中国人作家によってフランス語で書かれたフランス小説なのです。
文化大革命期の1968年の暮れ。毛沢東の主導する下放運動によって、高等教育を終えた高校生たちは田舎に送られ、貧農下層中農から再教育を受けることになりました。主人公の「僕」は中学三年生を終えて、高校入学前だというのに「知識人」と見なされて、幼なじみでひとつ年上の羅(ラオ)とともにこの対象となったのは、父親が「人民の敵」として糾弾される裕福な医者だったからです。羅の父親はさらに高名な歯科医でした。こうして子どもたちもまた何もしていないのに「知識人」として罪深い反革命的な存在となってしまったのです。十七歳の僕と十八歳の羅。二人が送られたのは、鳳凰山と呼ばれる山の山あいにある、羅が持ってきた目覚まし時計が珍しがられて、人が押し寄せるほどの文化のかけらもない貧しい村でした。糞尿の堆肥を入れた木桶を背にかついで山を登る仕事を課されて疲弊する二人は、どうにかここから抜け出す方法を考えますが、果たせないまま時間が過ぎていきます。しかし、その転機は、羅の特別な才能によってもたらされます。それは物語を物語ることができる力です。かつて見た映画を語って聞かせることができる羅の語り部としての才能は、誰も映画を見がことがない村の人々、特に村長の信望を得ることになります。こうして、前代未聞の口頭映画会を二人は村人の前で上演する運びとなります。そんなことで多少、待遇が改善された二人の前には同じ山に住む美しい少女が現れます。裕福な仕立て屋の娘でミシンを操る少女、少裁縫(シャオツァイフォン)。明るく笑う彼女の存在は二人にとって気にかかるものとなり、やがて羅は少裁縫と付き合い始めるようになります。さて、そんな村の日々を過ごしつも、文化的なインプットがないことは二人の知識少年に無聊を抱かせていました。別の村で働かせされていた同郷の友人が隠し持っていたバルザックの翻訳本を借りたことから、二人の知識欲に火がついて暴走し始めることになります。禁書であっても海外文学を読みたくてたまらない。そのおバカな行動も、ハメを外しすぎるのも、やっぱり知的青年の驕りが鼻につくのも、それもこれも青春なのです。どんな異常な社会状況であっても、青春は健在だという逞しさを感じさせるユーモラスな一冊になっているのが凄いところです。
本書で一番楽しかったのは、やはり主人公の少年たちが、この田舎の人たちの前で「語り部」になるあたりです。大デュマの『モンテ・クリスト伯』を、村人たちを集めて、九日間に渡って夜な夜な語って聞かせるイベントを開催するあたりは見もので、名作物語のストーリーを記憶だけで語れるものでもないだろうと思いながらもやり遂げられたのは、観客たちもまた物語に飢えている人たちだったからでしょう。その熱気や興奮が伝わってくる楽しい一幕でした。『ミスター・ピップ』という物語では、未開の島の唯一の本である『大いなる遺産』が、その島の子どもたちの心の拠り所となっていきました。文化の枯渇状態だからこそ輝くものもあるかも知れません。教養主義やペダンティックと裏腹ではない、純粋な知的欲求もまたあるはずです。未開の村に芽生えた文化の萌芽にも心を奪われます。本でも映画でも音楽でも、なんでも見ようと思えば見られる環境にいるのが現代(2024年)の我々ですが、見たい、知りたいという気持ちが、自分などは本当に減退してしまって、ちょっと気合を入れないと本が読めなくなっているのは閉口です。それはそれで幸福なことだとか言い出すと、もう何もインプットしない人になりそうです。「物語」を求める人たちの物語に憧れるのは、そうした自分の気概のなさからなのか。学生の頃に興味があったものの面影を追ってしまっているのも、現在の自分が枯渇していて、アンテナが錆びているからかなとも思います。