出 版 社: 竹書房 著 者: ヤン・マーテル 翻 訳 者: 唐沢則幸 発 行 年: 2004年01月 |
< パイの物語 紹介と感想>
刊行当時に読んでいたのですが、レビューを書いていなかったため、漠然と奇妙な話だなという印象だけが残っていました。海で遭難した少年が獰猛な虎と一緒に救命ボートに乗り、二百日以上も海上を漂流する、というサスペンスとして有名な物語であり、現実と幻想の境が曖昧で、リアルなディテールと荒唐無稽な展開が混在としていて、すべて主人公の妄想だったのではないか、と、そもそもフィクションでありながらも、その奇妙な枠組みに翻弄される物語であったと、再読して思い出しました。映画化されたということも知り、どう映像化されたのか気にかかっていました。この「少年と虎が一つのボートで大海を漂流する物語」自体は実に明快なのですが、その外側にあるものも含めて、物語の全体像は一筋縄ではないのです。今回、二十年以上経って再読してみて、海上を漂流しながら危険な動物と対峙するというサスペンスの目を離せない展開と、一見無関係なその他の部分との呼応が総体として暗示するものに、この奇想の物語の得体の知れなさをあらためて体感した気がします。サバイバルものを好む子どもたちには、主人公の信仰遍歴などを描く第一部はややとっつきにくいかと思いますが、虎と漂流する第二部は、夢中になって楽しめるものだと思います。とはいえ、荒唐無稽を超えてさらに現実離れしていく展開に面食らうだろうし、さらに第三部に至っては、どう解釈すべきか、頭を悩まされるところかと思います。僕もまた以前に読んだ際にレビューを書けていないのも、解釈を持て余したからか。今回も非常に困ってはいますが、第二部を物語的に紹介することになるのだろうなと思います。
インドに住む十六歳の少年、パイ・パテル。動物園を経営している両親とともにカナダに移住するために、家族や動物たちと一緒に乗った船、パナマ船籍の貨物船ツシマ丸が太平洋で海難事故に遭遇します。船は沈没しますが、パイは辛くも救命ボートに乗り込み難を逃れます。幅2,4メートル、長さ7.8メートルのボートにパイと一緒に同乗できたのは人間ではなく、一緒に航海していた動物たちでした。シマウマとハイエナとオラウータン、そしてリチャード・パーカーという名の大きなベンガル虎でした。海を漂流しながら、このボートの上では、檻から放たれた野生の動物たちの弱肉強食の世界が展開することになります。シマウマはハイエナに襲われて食い尽くされ、次にオラウータンも餌食となります。しかし、そのハイエナさえも、より強力な捕食者の前には手も足も出ないのです。救命ボートの備蓄倉庫には、パイ一人が生きのびるためなら100日分以上の非常食も飲料水もありました。とはいえ、先の見えない漂流であり、虎のための食糧はないのです。虎が空腹になれば、自分が虎の食糧となってしまう。パイはなんとか自分の方が優位であることを見せつけ、テリトリーを死守し、魚を釣り、虎に与えることで、その距離を保とうとします。海の調教師。しかしながら漂流は続き、1977年7月2日の沈没から1978年2月14日にパイがメキシコの湾岸に流れ着くまで、227日の苦闘を経験することになります。その驚くべき記録、だけではないのがこの物語の世界観です。
パイはインドの動物園で育つという、豊かな遊び場を持った少年でしたが、非常に思索的で考え深い性格の子です。動物園で育ったことに影響を当てられたかどうかですが、色々な信仰に惹かれ、それぞれの神に祈りを捧げるようになります。そんな彼が、死と隣合わせの漂流の途上で、何の神に祈ったのか。そして、そこに魂の救済はあったかというと、それどころではなく、生きるために、救命ボートに設置されたサバイバルマニュアルを頼りに、実践的な行動を行うしかなかったのです。とはいえ、人生をあきらめず、なんとか生き延びようという鉄の意志は、彼にささやきかける心の声に裏打ちされています。そこには信仰の力もまたあったのか。ともかくもパイの諦めることをしない前向きなメンタリティに読者としても救われるところなのです。とはいえ、この極限状態での疲弊は少年の心身を蝕んでいきます。彼が語る物語もまた、リアルか幻想なのか、その現実味を失っていきます。いえ、そもそもが荒唐無稽ではあるのですが、動物の生態の細かい描写などでリアリティが補完されており、この不思議な世界観を受け入れてしまうのです。そして最終章で示される、超現実的な可能性には驚かされることになります。さて、多くの動物を乗せたノアの方舟というものが、実際、あり得たかのかどうか。ついぞ、そこで動物たちが争わないようにどうコントロールできたのか、などという観点を持ち込みたくなります。究極的に、人は何を信じるべきか。宗教的な奇跡の逸話に対して、信仰心はツッコミを入れないものだからこそ、信仰の意義を思うのです。この「パイの物語」の複雑な構造の、「少年と虎が漂流する」だけではない拡がりもまた、サバイバルものを好む子どもたちにも体感してもらいたいところです。