出 版 社: 徳間書店 著 者: ルース ホワイト 翻 訳 者: 光野多惠子 発 行 年: 2009年03月 |
< ベルおばさんが消えた朝 紹介と感想 >
こういう作品が読みたかった、という感想は一般性がないのかも知れないけれど、僕にとっては理想とするヤングアダルト作品で、ただただ、そう呟いています。甘さと苦さと香辛料の絶妙なバランス。人情や風俗が描き出す町の情景と子どもたちの心象がミックスして、ここに魅力的な物語の空間が生まれています。非常に重いテーマをはらみながらも抜群のユーモアとウィットがある。こういう作品が好きなんだなと実感しました。主人公の十二歳の女の子、ジプシーの繊細な感受性や、彼女と同学年の従兄弟のウィンローの機知と、もう泣きたくなるようないじらしさにはノックアウトされます。そして、子ども時代に置きざりにしたままの未解決なものにも再会させられて、複雑な気持ちになるのです。事件の当事者は大人なのだけれど、その衝撃波は子どもたちの感性を揺るがします。その揺らぎはどう受け止められるべきなのか。この問いかけには答えがなくて、読者としては、ただあわてふためくばかりなのだけれど、そんな戸惑いもまた読書の醍醐味なのでしょう。心地良い困惑がここにあります。
ジプシーのママの妹、つまりおばさんであるベルが、ある朝、忽然と姿を消したことは、1953年のアメリカの小さな炭坑町では話題騒然の事件として広がりました。家出なのか、誘拐なのか、謎は尽きないものの、未解決のまま、それでも平穏な日常が戻ってきます。おばさんの家で、無骨な炭坑夫の父親と二人きりで残された息子のウィンドローに手を差し延べなくては、と考えたのはジプシーのおじいちゃんとおばあちゃんで、こうしてジプシーは従兄弟と一緒に暮らすことになりました。小さな頃にパパが死んでしまったことと、ママの新しい旦那さんがいけすかないということを除けば、ジプシーは恵まれた生活をしています。やさしい祖父母がいて、美人のママがいる、文化的で暖かい家庭があります。ジプシーは両親の素養を受け継いでいるので、賛辞にはこと欠きません。ただそれは外見についてだけ。ジプシーはそれを残念に思うような子なのです。どうして自分は外見しかほめられないのか。いや、贅沢と言うことなかれ。これはとても皮肉なことなのだと、後に読者は知ることになるのだから。一緒に暮らすことになったウィンドローは、眼があっちこっちを向いている斜視で、おかしな顔をしています。でも、彼はそんな自分の眼のことも上手いジョークにすることができる賢い子でした。ジプシーと同じクラスに転校したウィンドローは、そのユーモアと話術で、クラスの人気を集めます。外見はおかしくても、不思議な魅力が彼にはある。ジプシーは、そんな従兄弟を好ましく思いながらも、才覚を評価される従兄弟に微妙な嫉妬を感じたりもします。おばさんは見つからないまま時間は過ぎていき、ジプシーはやがてママとベルおばさん、そしてパパの過去を知ることになります。物語は、目をそらして見ないようにしていた真実を暴き、読者を震撼させます。そのあざやかな痛みに、なんということなんだろう、と呟き続けるしかないのですが、それでも人は生きていかねばと、力強く感じることのできる物語です。
「大人の限界」を子どもはどう受け入れるべきなのだろうかと思います。大人がギブアップしてしまうなんて、子どもにとってはただの理不尽です。ただ、いやがおうにも、そうしたことに直面しなければならないことある。子どもたちが、そうした痛みとむきあっていくにはどうしたらいいのか。強く生きていく力を養うためには、もっともっと信頼と愛情に満たされていないと・・・。そんなふうに思うほど、彼らは無防備で、むきだしです。しかし、ただ傷ついているだけではなく、彼らは、傷と向かい合う勇気をもって立ちあがるのです。読者としての自分は、大人の弱さに共感ができます。そういうこともあるのだろうな、と思うのです。ただそれを容認しているわけではない。大人コドモで、子どもオトナな感受性が児童文学やヤングアダルトを楽しめる素養なわけですが、大人的にはやはり複雑です。このもやもやとした至福の読書感覚を是非、皆さんにもお伝えしたいところです。物語の核心はともかくとして、周縁部分の楽しさがたっぷり詰まった作品です。描き出される20世紀中葉の炭鉱町の風景といい、町の人たちの雰囲気、子どもたちが話す笑い話など、どこをとっても魅力があります。2009年の翻訳作品のベストです。