出 版 社: 国土社 著 者: 金治直美 発 行 年: 2010年04月 |
< ミクロ家出の夜に 紹介と感想>
公序良俗に反することに児童文学が触れにくくなったのは、コンプライアンス重視の社会の趨勢によるものです(自分も出版社の仕事をしていた感覚すると、ともかくクレームがつくのが嫌なので、物議を醸すのを避けたい気持からそうなっていくような気もします)。家出もまた、そんな事柄のひとつです。わかってくれない大人や社会への子どもの反抗手段、といえば家出だった時代もありましたが、いつからか不登校になって引きこもる方向性に変わってきています。是非はともかく、安全で危険がないのは良いところでしょう。とはいえ、家にいたくない、という子どもは引きこもってもいられないし、かといって家出をする度胸もお金もないとなると、できることは限られてきます。本書の主人公、中学一年生の美陽(みはる)がとったアクションは「ミクロ家出」です。塾の帰り、電車で一駅乗るだけの帰路、家の最寄り駅で降車するのに、環状線である山手線を逆回りに一周することで、帰宅を一時間遅らせるという、ささやかな反抗を試みていました。ところが美陽は電車の中で不思議な出来事と遭遇してしまいます。この物語はファンタジーと、リアリティが混淆しています。貧困児童文学やモラハラ児童文学などが2010年代の後半以降活性化しますが、本書のディテールにもそうした萌芽があります。といいつつ、社会問題よりも家族の幸福や色々な人生があることについて考えさせられる味わい深い作品です。東京(山手線)の土地勘がある方には一層楽しい作品ではないかとも思います。
田端に住む美陽が駒込にある塾にわざわざ一駅だけ電車(山手線)に乗って通うことになったのは、母親の職場であるスーパーの上司の縁故で、格安で勉強を教えてもらえることになったからです。そうでもないとなかなか塾に通えるほどの経済的余裕がないというのが美陽の家の事情でした。両親は揃っていますが、町工場づとめの父親とスーパーでパートしている母親の収入は豊かな暮らしができるほどではなく、美陽は今までディズニーランドに一度も行ったことがないことを友だちに自虐的に話すほどでした。できれば夏休みに大阪のUSJに行ってみたいと思っている美陽ですが、難敵は父親の明です。父親は何故か電車に乗ることを嫌がるし、すぐに不機嫌になって、いらいらした態度をとるような性格でした。母親も美陽もそんな父親にいつも気をつかっています。父親が母親よりも先に帰ってきている日には、二人だけになりたくないと思う美陽は、塾帰りの山手線を逆回りにあえて一周して、時間を稼いでいたのです。ある日、電車に忘れ物をしそうになったところを注意してくれる声がふいに頭の中に響きました。姿が見えないその声は別の日にも大阪弁で自分に話しかけてくるのです。それが友だちが話していた、忘れものを注意してくれるという、都市伝説、網棚ばばあという幽霊的な存在だと知り驚く美陽。やがて、やけにフレンドリーな網棚ばばあと美陽は会話を交わすようになり、家のことでの悩みを打ち明けたり、網棚ばばあの身の上話を聞くことになります。やがて美陽は、網棚ばばあが、母親から聞いた父親の母親、つまり祖母の素性に重なることに気づきます。いつも不機嫌な父親にもまた、心に抱えた哀しみがありました。電車や出身地の大阪を厭うのも複雑な事情があるようです。網棚ばばあと父親を、なんとか引き合わせようと美陽は画策します。両親の隠されていた過去を知り、美陽は人の幸福について思いを巡らせていくことになります。
あくまでも個人の体感ですが、親が経済的に安定した「会社員」であるというのが、国内児童文学に描かれる子どもたちの最大公約数かと思います。シングルマザーも描かれがちですが、両親が揃っていることが、やはりスタンダードでしょう。とはいえ、この「普通」から離れている子どもたちも多くいて、だからといって不幸というわけではないものです。美晴の父親の明は、自動車会社の下請けの町工場で働く非正規社員であり、母親はスーパーのパート社員です。収入の面では決して豊かではありません。美晴も中学に入って、吹奏楽部に入部したかったのに、高価な楽器を自分で買わなくてはならないために断念せざるえませんでした。同じ断念組のヨシダとクーミンと親しくなり、放課後を一緒に過ごすようになりますが、クーミンは父子家庭で、ヨシダは母子家庭で、両親が揃っている美陽は話題に気を使うこともしばしばです。それぞれの家庭に事情があり、一概に何が普通で、どんな家族が幸福かなんて言えるものではありません。当初、家の貧しさや父親の性格や態度に不満を持っていた美陽ですが、物語の途中で、これまで両親が話そうとしなかった二人の事情を知ることになります。母親に捨てられた過去があり、中卒で大阪から東京に出てきた父親の明。家族と不和があって、高校中退して盛り場で働いていた元ヤンキーの母親の幸子。二人の出会いから、今のささやかな幸福を手にするまでの成り行きを知る美晴。網棚ばばあとなった祖母と父親の和解というファンタジックな展開にいたる物語ですが、リアリティのある多難な人生を歩んできた両親の姿を娘がどう受けとめるのかが見どころです。読者である子どもたちもまた、物語の中で色々な大人を垣間見て、スタンダードではない人生と、そこにもまた歓びや幸福があることへの想像力を養って欲しいですね。