モノクロの街の夜明けに

I MUST BETRAY YOU.

出 版 社: 岩波書店

著     者: ルータ・セペティス

翻 訳 者: 野沢佳織

発 行 年: 2023年09月

モノクロの街の夜明けに  紹介と感想>

邦題である「モノクロの街の夜明けに」というタイトルに陶然とさせられる読後感です。本書は、1989年に起きたルーマニア革命を題材に、チャウシェスク政権の圧政下に暮らしていた人々の生活を十七歳の少年の目を通して描いた物語です。全編を通じて継続する緊張感や目を離せない展開は、読書の愉悦に満ちており、また究極の状況下での人間の在り方についても考えさせられる深く濃い作品です。近年、歴史的事件を残された映像とともに紹介するドキュメンタリー番組が多くあり、過去の貴重な映像や写真を目にすることができるようになりました。社会主義崩壊に至る東欧を特集した番組の、二十世紀中葉の統制下の社会の映像はおおよそモノクロで、映像だけではなく、実際に色を失っていた世界のように見えます。1980年代の終わりに、チェコのビロード革命のように、無血での社会体制のシフトもあった一方で、本書で描かれている、多くの犠牲者を出した暴動を伴なう革命の歴史もありました。モノクロの世界を生きていた人たちが夜明けを迎える、その歓喜の瞬間に立ち会う読書です。しかし、ここにあるのは、正義が悪を駆逐する明快さだけではありません。圧政によって歪められてしまった人間の心の哀しみと、誰もが陥るだろう隘路でもがく人間存在をどう受けとめるかが問われているのです。歪んだ社会体制の中で、人の心もまた壊れてしまっています。それぞれが大切なものを守るために、政府の圧政に加担せざるを得なかった状況について考えさせられます。密告社会という人間の信頼関係を破壊する社会を作った政権の悪政は糺されるべきですが、そこに翻弄された人間の運命と、そこに抗った勇気と、従ってしまった心性に、実に感じいってしまうのです。ディープな読書を約束できる一冊です。

1989年の革命前のルーマニア。十七歳の高校生男子、クリスティアンは、ある日、突然に秘密警察(セクリターテ)に呼び出されます。外国人に自国の切手を販売した容疑です。クリスティアンの母親は、アメリカの駐ルーマニア大使である外交官の家で清掃の仕事をしており、母親を迎えに行くクリスティアンは、その家の息子であるダンと親しくなっていました。切手は彼と交換したもので、販売したわけではなく、それでもなぜか手元にアメリカのドル紙幣が残されていたことは、クリスティアンの立場を悪くします。秘密警察はこの件を不問にする代わりに、外交官の家族を見張る密告者になるようクリスティアンに命じます。暗号名オスカーとして、活動せざるを得なくなった彼は、自分もまた誰かに密告され、はめられてこの窮地に陥ったのではないかと疑い始めます。チャウシェスク政権下のルーマニアでは、秘密警察が厳しく民衆を統制し、一般市民が互いを見張り、密告しあう監視社会が形成されていました。食べ物や生活物資は配給制で、通貨よりも賄賂の煙草の方が価値がある貧しく世知辛い世界です。そんな圧政下の若者たちの捌け口は、密かに集まって、アメリカの映画を鑑賞すること。しかし、そこに映し出された自由な世界の生活が、彼らには本当のことだとは思えないのです。それほど、映画の中の世界は自分たちの生活とはかけ離れたものだったからです。クリスティアンは外交官家族を監視しながら、自分もまた監視されていることに敏感になっていました。常に見張られ、どこに盗聴器が仕掛けられているかもわからない。そして、自分を秘密警察に密告したのは、友人のルカではないのかと疑心を募らせます。一方で、女生徒、リリアナと親しくなり、気持ちを募らせるようになりますが、クリスティアンは彼女から密告者であると指摘され、軽蔑されてしまいます。誰も信用できず、互いに不信感を募らせる社会。反政府思想の持ち主だったクリスティアンの祖父の謎の死は、恐らくは秘密警察に暴行されたからです。社会主義体制下にあった東欧諸国が次第に自由化していく中、動きのないルーマニアに苛立つクリスティアンは、この外国に知られざる社会状況をノートに記録して、ダンの父である外交官に託し、世界に発信して欲しいと考えます。やがて、ついにルーマニアでも反政府運動が始まります。それは民衆の暴動として、政府から激しい弾圧を受け、クリスティアンたち学生も巻き込まれていきます。この暴動は革命へと発展していき、社会を大きく変革することになっていくのですが、多くの代償が支払われることになります。

厳しい統制下で西側の文化に憧れる子どもたちの姿に心惹かれるところがあります。政府から禁じられても、密かに集まって、闇で流通するアメリカ映画を見て興奮しながらも、そこに映し出されたものが実際に存在しているのか半信半疑だったりするあたりなど、ちょっとユーモラスに見えてしまいます(映画が『ダイ・ハード』のような娯楽作品であるあたりも、ちょっと面白いところで)。それほど西側の文化とは隔絶している彼らには、自由な生活が実際にあることが俄には信じ難いものだったのでしょう。1960年代に、西側の音楽をコピーして東側に持ち込むために、医療用のレントゲン写真をリサイクルして使っていたという話を聞いたことがあります。そのまま人間のレントゲン映像が残されているため、肋骨レコードと呼ばれたとか。本書でも、アメリカの映画を一人の女性がルーマニア語で訳して、全ての台詞を言う、という海賊版が鑑賞されています。こうした不自由さの中で人々が憧れを募らせるあたりには、申し訳ないのですが、どこかゆかしさがあります。自由化によって、彼らがどんな気持ちで西側の文物を享受していったかも興味深いところです。一方で、監視社会下での人々の不穏な動きや人間不信が、解放後も禍根を残しているあたり、根が深いものを感じます。特にルーマニアでは、統制下での秘密警察の記録が一般に公開されたのが十数年を経てからで、誰が一体、密告者だったのか、当時の「真相」を主人公が後に知るあたりは衝撃的です。国家が、人間同士の結びつきや、互いに信頼感を築くことを疎外していく。映像に残された記録以上に、物語が伝える子どもたちの悲痛な叫びには感じ入るところがあります。不合理な社会環境の中で人が、その心を歪められていくことがないようにと願います。