出 版 社: PHP研究所 著 者: 高田由紀子 発 行 年: 2018年08月 |
< 君だけのシネマ 紹介と感想 >
同じ映画館でも「シネコン(シネマコンプレックス)」と「ミニシアター」では、規模の大小以上に、作る動機が異なるものと思います。映画館がない佐渡島。古い民家が建ち並ぶこの京町通りでミニシアターを作ることは、戦略的ビジネス投資ではありません。史織の祖母が家を改造してミニシアターを作ろうと思ったのは、自分が好きな映画を皆んなに見てもらいたいという思いがあったからです。映画を見た人の中に、何か風が吹くようにと願いを込めてつけられた「風のシネマ」。父と一緒に祖母の家に越してきた中学二年生になる史織は、上手くいかなくなっていた自分自身を、この島でやり直そうとしていました。新しい場所で家族や友人との関係を見つめ直していく。夢中になれることのなかった史織は、「風のシネマ」で映画に顔を輝かせている島の人たちとの触れ合い、自分の言葉を見つけ出していきます。史織が物語の終わりに迎える、ずっと頭を悩ませていた問題との「最終対決」は、どう決着するのか。「映画館のある町」のロマンと、母娘の葛藤が交差して織り成される成長物語です。
父親が佐渡島へ転勤になることを、史織がどれほど待ち望んでいたか。母親は自分の両親の介護があるため、父親の転勤が決まっても、新潟に留まらなければならない。母親と別れて暮らしたいと思っていた史織は、この好機がくるのに賭けていたのです。ここで母親から逃げ出さないと、自分が壊れてしまう。そんな危機感に娘は焦がされているのに、母親は一切、気づいていません。娘のためを思ってやっていることは、全て大義名分が成り立ちます。母親の好きな服を着せられ、母親の意思通りに受験勉強をさせられる。受験のために学校も休まされ、小学校の友だちとの関係も損なってしまったのに、受験に失敗して公立中学に一緒にいくとなれば、まあ、針のムシロは想像に難くないところ。それで不登校になれば、さらに母親からのプレッシャーは増すという、もう勘弁して欲しい悪循環の中に史織はいます。なんとかして、ここを脱出するしか、生きのびる道がない。愛情がすれ違う母娘との確執は、児童文学の中でもフォーカスされがちなテーマですが、それぞれの作品に新しい回答が用意されています。「風のシネマ」で過ごした史織は、以前の彼女とは違います。この支配からの卒業を果たすには、母親に言わなくてはならないことがある。母娘が次のステージを迎えるための、痛みを孕んだ史織の決断を、是非、見守って欲しいところです。
島の生活は新たな人との関係を史織にもたらしました。母親の言うことを聞くあまり、友だちを失ってしまった史織は、おっかなびっくり友たちとの関係の築き方を再学習していきます。同級生の変わった女の子である一花との距離感や、気になっている少年、瑛太との、一花を挟んだ関係性など、ごく普通の中学二年生めいた心の動きを史織が取り戻していくことも、この島の生活が与えてくれたものです。ローカルな町と映画館、そして人と人の親密さが好意的に描かれていきます。町と映画館を結ぶお話とえいえば、映画『ニュー・シネマ・パラダイス』が思い出されますが、この物語の中でも思い入れを持って熱く語られ、重要な役割を果たしています。で、この物語を読んでいると、あのラストシーンのフィルムの場面のところの曲がずっと頭の中で流れてきて、そんな借景がオーバーラップして映画への想いにグッときてしまうわけです。そういえば、四半世紀以上も前に、あの映画を観たのは、今はもうない地元の再演館でした。「どこで」「誰と」一緒に観たか、ということも映画の重要な要素ですね。高田馬場ACTシアターとか昔のユーロスペースとか文芸坐ルピリエとか、かつてのミニシアターで一人孤独に膝を抱えていたのが自分の青春なので、こうした小さな映画館での心の交流の物語を、やや眩しく感じてしまいました。もはやシネコンでしか映画を観ない昨今です。あと、Amazonプライムと。