魔女のいる教室

出 版 社: 岩崎書店

著     者: 大石真

発 行 年: 1980年12月

魔女のいる教室   紹介と感想>

教室内のパワーシフトを描く時、その関係性を、ヒエアルキー(身分階層)として捉えがちなのが昨今(2020年)の風潮で、あれはどうにかならないのかと思っています。教室に何故、格差が存在するのか。マウントを取るだの取られるだのという言い方も不快に思っていて、人と対立するにしても、横並びでしのぎを削りあうことが望ましいのではないと思っています。要はリスペクトがないままに、人を見下すだけなのが嫌なのです。まあ、そうした教室の認識からの出発が見せてくれるものもあり、物語として語るべきことは沢山あります。それでも、人が集まった時、自ずと醸成される関係性の空気が、実際どうであるか、よりも、どうあるべきかという願いを込めたものを児童文学で読みたいのだという気もします。この物語は、四年二組の教室で権力を誇る、魔女、ことクラス委員長の藤崎英美子と、その取り巻きたちに果敢に戦いを挑んでいく少年テツヤの姿が描かれます。とはいえ、正面から挑んだところで多勢に無勢。吊るし上げられてお終いというのは目に見えています。そこで、自分に有利な情報を収集して、世論を味方につけて、なんとかクラス委員の座から魔女を引きおろす戦略をテツヤは練っていきます。一方で物語は藤崎英美子の家庭環境や、その心情を透過しながら、教室に絶対的な強者が存在しないことも見せてくれます。子どもたちは手をつなぐことよりも、罵り合うことでコミュニケーションしていくのが常套かも知れず、そこから生まれていくものもあるようるです。最期に残る哀感と、それでも同じ教室にいた同志としての連帯には胸を打つものがあります。先生が求心力や影響力を持たず、コミットもせず、子どもたちが自分たちで教室内の社会を形成していくことも後の児童文学では主流のスタイルですが、ここでは既に完成されたものになっています。

ただのイヤなヤツというわけではなく、魔女こと藤崎英美子には魅力があります。背が高く、目鼻立ちが整っているなんて、外見だけではなく、ちょっと影があって、滅多に笑わない大人びたところも彼女を神秘的に見せているようです。彼女とその親衛隊が、クラスを統制し、クラスの憲法と呼ぶ厳しいルールを守らせることで、四年二組はまじめだと評判の良い模範的なクラスとなっていました。テツヤは、生徒がちょっとくらいハメをはずしても、自由に意見が言えて、明るくのびのびしたクラスが良いのだと考えます。ただ、正面から意見しても女子全体を敵にまわすだけ。なにせクラスの乱暴者の横内君でさえ、英美子たちに粛清され泣き出すほどなのです。テツヤは学習塾の知り合いを通じて、英美子に不満を持っている分子はいないのかと、クラスの女子の内情を探りますが、なかなか突破口はつかめません。そんな折、クラスに転校生がやってきます。早川みどり。驚くほどの美少女で、性格も明るい彼女にみんな好感を持ちます。テツヤは早川みどりをクラス委員に擁立することで、なんとか英美子の牙城を崩そうと画策しはじめます。一方で英美子も、自分をおびやかす早川みどりの登場で穏やかな気持ちではいられなくなり、無視することでやり過ごそうとしていました。しかし、みどりの家庭に何か問題があることに気づいた英美子が、みどりが転校してきた理由を探ろうとしたのは、弱みを握ろうとしたからではなく、自分もまた複雑な家庭環境にいて、心の痛みを感じていたからなのです。クラス委員選挙の行方や、英美子に起きる家庭の不幸など、さらに物語は展開していきます。やがて物語は終局に向かい、表面的な対立を越えて、子どもたちが結びついていく姿が描かれていきますが、イージーな大団円ではなく、非常に哀感のある結末がこの物語には待っています。それぞれの子どもたちの淋しさに寄り添える、そんな手応えのある読後感が残されます。

“物語の背景に、小学校では男子よりも女子が身体的にも精神的にも成長著しく、教室のリーダーシップをとっている状況が踏まえられています。女の子は母親が男の子をどうあしらうのかを、自分の兄弟への対応を家で見て学んでいるので、この点でアドバンテージがあるというのは作者の慧眼だと思いました。概して、小学校高学年から中学生にかけては、女子の精神年齢の方が上だというのは経験則でもあります。ところで、テツヤが英美子に反発するのは、教室に自由を求める正義感だけではなく、「女のくせに生意気」という意識が働いていることが表現されています。デフォルトで女子は男子に従うべきと思っていて、そこを自省することがないというあたりに、見るべきものがあります。そうした男子の肝の小ささだけでなく、同じクラスの女子、マキのように、英美子に取りいろうとする子もおり、テツヤは「恥しらず」とマキを罵ります。人の保身や、矜持や、根っこにある偏見など、小学生の心にも芽生えている意識が、この時代の教室文化を踏まえて児童文学が描き出したものとして興味深く感じるところです。ところで、英美子が、鬼でも悪魔でもなく「魔女」と呼ばれるところにも含みがあります。おそらくその呼称は、悪口ではなくて、どこか畏敬の念が含まれている気がするのです。ただ、英美子はそれをどう思っていたのか。全てがノーサイドとなった物語の最後に、英美子は、自ら作詞作曲した『魔女の歌』というタイトルの曲をピアノで弾き語りします。自分の本当の気持ちをこめた歌を彼女が歌う時、彼女の気持ちも、それを見守る同級生たちの気持ちをも読者は味わい、唖然するのです。単純な男子と女子の教室での対立を描いたユーモラスな物語ではない深淵が、ここに垣間見えます。どこかに連れて行かれてしまうような気持ちにさせられる、この物語を是非、味わって欲しいと思います。