わたしの空と五・七・五

出 版 社: 講談社

著     者: 森埜こみち

発 行 年: 2018年02月


わたしの空と五・七・五  紹介と感想 >
ここで描かれる物語は、中学一年生になったばかりの女の子がクラブ活動を始めて、クラスの子たちとも仲良くなる、というささやかなものです。社会的なテーマや問題意識とは無縁の、ごくごく平和で小さな空間がここにあります。とはいえ、この作品が非常に魅力的なものとなっているのは、主人公の空良の心の動きが、ビビットに捉えられ、その一喜一憂が魅せてくれるものだからです。中学校の新しいクラスで、同級生との距離を測りかねている空良。どのグループと親しくしたらいいのかとか、ちょっとキツそうな女の子に目をつけられないように、なんて思っているうちに、誰とも友だちになれていない自分に気づきます。そんな自分の内省癖を持て余している彼女が出会ったのが、一枚のチラシです。「しゃべりは苦手でもペンを持ったら本音をぶちまけられる者よ!」。その呼びかけは文芸部への誘いでした。文芸部に参加することになった空良は、個性的な三年生の先輩たちの薫陶を受け、自分の心の中にある鬱屈を開放していきます。そんな様子がとてもウィットに富んだ表演と清新な感覚で描き出されるあたり、生真面目な児童文学とは一線を画していて、どこか往年の少女小説(秋川文庫からコバルト初中期あたり)を彷彿とさせます。俳句の話が中心となりますが、これは「文学」のスピリットでこの世界を捉え直した女の子が、リアルライフを変えていく勇気を持つ物語です。このところのYA作品には詩歌を題材にした作品が多く目につきますが、それぞれの作品のアプローチの違いには興味をひかれるところです。

空良は見学に行った文芸部で、三年生の滝沢冬馬と谷崎潤子の二人と出会います。温和な冬馬と違い、ややエキセントリックな潤子は空良に檄を飛ばします。「みんな、腹の中にうじ虫をかっている。うつくしい物語って、うつくしい成分からできているわけじゃない。うじ虫からできているのよ。うじ虫!」。小説も書くという潤子は女史然とした雰囲気があり、鋭い洞察力の持ち主です。そんな先輩たちと一緒に空良は文芸部のイベントである「句会」に参加します。俳句とは何かから始まって、季語を歳時記で探すことや、その手法、句会の進行方法などもガイダンスされていく物語の展開ですが、興味深いのは、やはり空良が自分の心のうじ虫を見つめて、それを表現に昇華させていくくだりです。自分の心の内を赤裸々に表現した俳句を、句会の場でみんなに評価してもらう。恥ずかしさと誇らしさがない混ぜになった、そんな至福の時を空良が迎えていく姿をつぶさに見ることのできる物語です。これは多分、なんらかの創作活動をされたことのある方には覚えがある、痛さと甘さを孕んだ快感だと思います。文学は「弱者の糧」ですが、それをくつがえして、強さに変えていくことができる。文学スピリットが貫いていく、この物語のドライブ感がなんとも愛おしいところです。第19回ちゅうでん児童文学賞受賞作。児童文学を逸脱する予感さえ感じさせるこの「文学趣味」に、児童文学表現の新しい可能性を感じる作品です。

同級生に寄せる空良の視線もまたいい距離感の間合いがあるのです。しかも描かれる同級生たちのキャラクターが、典型性だけでなくプラスアルファがあって、やや複雑な内面を秘めている、らしいところを、空良の視座から見せてくれるところがツボです。物語の終わりに、句会で自分に自信をつけた空良の同級生たちへのアプローチの仕方が変わっていき、世界がすこし動き始めます。それぞれの個性と、空良の個性が混ざり合い、ハーモニーが聞こえ始めるのは、空良の変化によるものもあるけれど、彼ら一人一人が潜めているものなのだなと感慨もあります。『悔しさに眠れぬ夜も蘆の角』そんな空良の俳句が同級生にもまた共感を呼びます。ある秘密を共有してしまった同級生との俳句を借りて交わすやりとりなど、心の奥にあるものを触れ合わせる、そんな瞬間の気持ちの揺れが見事に描き出されていきます。学校という場所で「本音をぶちまける」のは匙加減が難しいものです。とはいえ、心を開かなければ近づけない場合もあります。それぞれのうじ虫が共鳴しあうこともある。俳句という表現方法を手にした空良が見せる「冴え」。これをカッコいいと思ってしまうアナタも、同じ穴のムジナです。きっと、うじ虫がキライじゃないはず。