境界のポラリス

出 版 社: 講談社

著     者: 中島空

発 行 年: 2021年10月

境界のポラリス 紹介と感想>

「境界のポラリス」というタイトルが意味深長です。ポラリス(北極星)は、地球からの天体の見かけでは、宇宙の中心にあって動かない星です。この物語で、日本に暮らす中国籍の高校生の主人公は、自分のアイデンティティに揺らぎを感じています。彼女が、自分と同じように日本で暮らす外国籍の子どもたちと交流する中で、自分のスタンスを見つけ出していく展開に、ポラリスの象徴性を思います。周囲に振り回されることなく、天体の中心にいる。そんな自分の絶対座標を見出せたのなら、生きづらさも解消されるのではないか。主人公の気づきは、周囲にいる子どもたちのそれぞれの心の裡に近づくことでもたらされます。自分を天体の中心に置くことは唯我独尊ではなく、人それぞれが宇宙の中心にいるのだと尊重することでもあるのです。自分の存在に悩んだ時、自分の内側にこもるのではなく、誰かと共生していくことで世界を知り、広い地図の上に自分の居場所を見つけ出すこと。疎外感を意識している日本の片隅も、自分にとっては世界の中心であり、そこで輝くことで、自分もまた誰かを導く極星となれるのだという希望がここに語られます。誰しもが思春期にはアイデンティティの揺らぎを経験するものと思います。主人公は国籍が違うということで傷つけられて育ち、進学した高校ではそれをひた隠しにしています。その出自に誇りを持つこともできないため、アイデンティティの揺らぎもまたことさらです。その0地点からスタートする物語は、やがてポラリスとして輝く主人公の姿を描き出します。第61回講談社児童文学新人賞佳作受賞作。いや、論点は「境界」の方にあるのか。日本社会の閉塞感を俯瞰させる示唆に富んだ物語でもあるのです。

仲の良い友だちと連れだって原宿に遊びに行く「華やかな高校生活」を送りながらも、主人公の恵子が焦燥感に苛まれているは、自分は「フツーの日本人」ではないと考えているからです。五歳の時に、父親のD Vから逃れるため母親に連れられて、中国から日本に逃げてきたという複雑な家庭環境に育ち、母親が日本人と再婚したことで、吉田恵子という名前の日本人として生きることになった恵子。その内心は、高校生になった今も、自分が中国人であるのか、日本人であるのか、何者かわからない状態に戸惑い続けています。中国人であることでイジメられた経験から高校では自分の出自を隠して友だちと付き合っている恵子は、自分の存在自体に疑問を感じていました。そんな折、恵子はバイト先のコンビニで、横暴な客に絡まれたところを、中国文学を専攻する大学院生の幸太郎に助けられます。幸太郎がボランティアで教えているという青葉自主夜間中学に興味を覚え、見学に訪れた恵子は、多くの外国籍の子どもたちが日本語を学んでいる姿を目にします。中国人でありながら日本人と変わらない日本語を話せる恵子は、そこで勉強している子どもたちの憧憬の的となります。子どもたちの日本語学習をサポートすることになった恵子は、自分が苦労して日本語を身につけてきたプロセスを辿りながら、自分自身を再発見していきます。そして、自分から興味を持って、相手の事情や悩みに歩み寄っていくようになるのです。高校では自分の事情を隠したいがために、友だちと深く関わっていなかったことに恵子は気づきます。夜間学校で親しくなった中学二年生の楽花が日本語スピーチ大会に参加する手伝いをしながら、頑張る勇気をもらった恵子が、自分もまた将来を見据えていく姿が描き出されていきます。

よく出来た成長物語です。日本に馴染んで、日本人のようになることを自分に課して、無理をし続けてきた恵子の気持ちがほどけて、もっと広い世界の中にいる自分を見出していく心の拡がりが爽やかな作品です。一方で、人と心を通わせることの難しさを痛感させる作品でもあります。恵子は自分が日本人ではないということをネックだと思っていますが、実際、胸襟を開いて人と付き合うことの難しさは、そうした次元の問題だけでもないのです。僕自身が人と理解し合うということの根幹について、あらためて考えさせられた作品です。というのは、僕にはやや腑に落ちないことがこの物語には多かったからです。外国籍の子どもたちは決して日本に来たかったわけではなく、裕福な生活状態でもないまま、それでも必死に勉強して日本の生活に馴染もうとしています。この、それぞれの事情が物語の中では詳しく説明されません。恵子の母についても、夫のD Vから逃れるためとはいえ、言葉の通じない日本に、親族に冷遇されてまで来る事情がよくわからないのです。この物語は日本の文化に馴染もうとする外国籍の子どもたちの心情を描くことで、受け入れる日本人側の理解の足らなさが逆照射されています。おそらくは多くの日本人は、外国籍の人たちが日本に移住して、ここで生きていこうとする事情や理由や心情を理解できていないと思います(要は、そこまでして日本に来るという意図がわからないはずです)。頑張っていることには共感できるし、応援もしたいけれど、その核心には触れられないもどかしさがあります。理解できないことに、人は恐怖や嫌悪を覚え、それがヘイトに繋がっていく危険があります。本書のような物語が架け橋となり、理解を促す効用があるはずなのですが、僕にはどこか未消化な気持ちが残されてしまいました。というのが二回読んだ感想です。要は、その程度の回数で諦めてしまうかどうかが問われているのだろうと思います。安易に、わからない、なんて口にしないことですね。ともあれ、人に歩み寄ることは難しいものです。それを踏まえての努力を思います。