出 版 社: 理論社 著 者: 古田足日 発 行 年: 1964年 |
< 宿題ひきうけ株式会社 紹介と感想 >
宿題ひきうけ株式会社の隆盛と没落。代金をもらって、他の子の宿題を代行するというビジネスを思いついた五年三組の子どもたちは「宿題ひきうけ株式会社」を立ち上げました。子どもたちには好評を得たものの、すぐに先生にバレてしまい、会社は解散を命じられます。たしかにお金をとって、人の宿題をやってあげるなんて、ちょっとどうかとは思いますね。とはいえ、彼らがこんなことをはじめたのには、それなりの理由があったのです。アキコのお兄さんの同級生だったテルちゃんは、勉強もせずに野球ばっかりやっていたのに、契約金一千万円でプロ野球選手になりました。一方、定時制の学校に通って、ちゃんと勉強しているアキコのお兄さんは衣料品屋のすみこみ店員のままです。大学を出て就職したミツコのお姉さんの給料はわずか二万五千円だといいます。これには、子どもなりに社会の矛盾を感じてしまうのです。ちゃんと真面目に勉強したところで、結局、いいことなんてない。てっとりばやくお金を稼げるなら、何をしてもかまわないんじゃないのか。それは、まさにモラルハザードですが、資本主義社会に忠実に生きるとはそういうことなのかも知れません。いやいや、そこまで開き直ってしまえないのも良心ある小学生です。宿題というものが、子どもにとって大切なものだということは、なんとなくわかっているのです。ではなぜ、お金をとって人の宿題をひきうけてはいけないのか?。そもそも宿題ってなんのためにあるのだろう。ここに考えるべき問題が生じます。この物語は、子どもが会社を作ってお金を稼ぐ、という、ただの面白ビックリなだけの物語ではなく、子どもたちに問題を提起し、それを考え抜かせることがテーマになっています。子どもの考え方を深化させる試みを孕んだ物語なのです。
社会と経済への関心。子どもにとってそれは、マクロ経済学ではなく、どうして自分の家ではサンマを一人、四分の一ずつしか食べられないのか、という生活の疑問から始まるものかも知れません。家族が多くて、収入が少ないのだからしかたがない。だったら、稼ぐしかない。ヨシダ君は、新聞配達をするかたわら、勉強よりもソロバンに力を入れていました。こちらの方が将来、社会で役に立つと思ったのです。それなのに、志望していた会社に導入された電子計算機のせいで、ソロバンが得意な人たちがみんな「合理化」されてしまったという話を聞き、大いにショックを受けます。一体、世の中はどんな理屈で動いているのか。経営者は労働者の要求をそっちのけにして、儲けることばかりを考えている。電電公社は電話をみんなダイヤル式にして、交換手のクビをきろうとしている。世の中を便利にしようとすることは間違っていない。でも、クビになった人はどうなるのか。先生は子どもたちに問いかけます。現代から過去を見れば、野蛮だと思うようなことがあるように、未来から現代を見たらどうだろう。今の世の中で行われていることは、どう思われるのか考えてみよう。それが試験勉強よりも大切なことだと先生は言うのです。子どもたちは、その発想力で、正解のない問題の答えを考え続けます。その思考の過程を物語にしてしまうという、実に驚きに満ちた作品です。
この物語ができたのは「現代っ子」を越えるものを書いて欲しいと言われたことがきっかけだったと作者はあとがきに記しています。「現代っ子」という児童観は、高度成長期の子どもたちが、それ以前の世代(戦中派)から、あまり良くない意味で使われていたという印象があります。古き良き倫理感の失われた世代。競争社会のシステムの中で生き残るために、それまでとは異質な価値観をもった新世代としての「現代っ子」。この作品は「現代っ子」であった当時の子どもたちのメンタリティをそのまま活写するだけのものではなく、彼らに対して「考えよ」という強いメッセージを放っています。答えを詰め込むのではなく、正解のない問題を考えていくということ。現代っ子が、新しい時代の中で考えていかなければならない問題はたくさんあります。例えば、経済の発展と労働者の「疎外」の問題もそうです。この作品では、労働争議の話なども直接的に語られています。時に、いじめっ子も優等生(という存在自体)に疎外されているなどという卑近な例で、社会的強者はどちらなのか、ということを問いかけます。現代を描くだけではなく、現代を越える力を子どもたちに与えようとする、児童文学の挑戦がここにありました。