出 版 社: 小学館 著 者: マルヨライン・ホフ 翻 訳 者: 野坂悦子 発 行 年: 2010年05月 |
< 小さな可能性 紹介と感想 >
「可能性はゼロではない」という言葉が物議をかもしたのは2011年5月(この文章、その頃に書いたんですが、今となっては意味不明なので、時事ネタはやめた方がいいですね)。マダラメさんという学者が「可能性がほとんどない」という意味でこの言葉を使ったというのですが、「明日、地球が滅亡する可能性はゼロではない」と「明日、雨が降る可能性はゼロではない」は意味あいが全然違うわけで、けっして一義的なフレーズではないと思うのです。例えば、一般人ならぬ科学者から「宇宙人のいる可能性はゼロではない」と言われれば、なんとなく、期待を抱くものではないかと。0.000001%でも可能性があれば、ゼロではない、は文字通り。だから「可能性はゼロではない」なんて誰にでも言える無難なフレーズなんですね。そして、言う人次第で「可能性がある」と誤解させてしまう。まったく他意はなく、本当に「ゼロではないからゼロじゃないと言った」ということなのか。「可能性はゼロ」と言い切れる勇気と責任感について考えていますが、果たして、世の中にそんな絶対が存在するのかということですね。
この物語には、「可能性をなんとかして小さくしたい」とやっきになっている女の子が登場します。NGO法人から外国の戦場に医師として派遣されて行ったお父さんが、流れ弾に当って死んでしまう可能性はどのぐらいあるのか。友だちの中には、お父さんが病気などで死んでしまった子がいます。ペットが死んでしまった子もいます。でも、お父さんとペット、両方が死んでしまった子はいません。となると、お父さんが死ぬ可能性を下げるには、ペットに死んでもらうしかない・・・という、凄い論法がキークの頭の中にひらめきます。キークはペットショップで、今にも死にそうだというネズミをもらってきて、やはりすぐに死んでしまうと、それですこし安心してみたりと、ちょっと常軌のレールを外れはじめています。ところが、今度は、お父さんが戦場で行方不明になったという知らせがキークとお母さんのもとに届いてしまうのです。もしかしたら、お父さんは死んでしまったのかも知れない。でも、その可能性を小さくすることはできる。お母さんと二人、不安の中で暮らすキークは、今度は、ペットの年寄り犬モナに死んでもらうしかないと思い立ちますが・・・。
凄い話です。後からリボじゃないんだから、起きてしまったことの可能性を後から下げることは不可能なはずです。お父さんは「行方不明」。死んでいるのか、生きているのかわからない。この「シュレーディンガーの猫」的な状態を、自分の思惑通り優位に持ち込むことはできるのか。バカバカしいけれど、子どもなりの短慮だと笑うこともできないのですね。これは自分にもさんざん覚えがあることです。「自分が応援すると負けるから、好きなチームの試合を見ない」というような科学的根拠一切なしの思い込み。自分にとって嫌なことをすることで、悪いことが起きる可能性を下げられるなんて、荒唐無稽もいいところ。でも、そうしたげん担ぎをされてる方もいるのではないか。とはいえ、そういう気持ちのいじましさもあるんですよね。自分の手を思いっきりツネって痛い思いをしてみたところで、一週間前に受けた試験の結果は変わらない。悪いことがあったって、その分、運が良くなることはない。でも、それは切ない願いと祈りなのではないか。他の人から見たら、わけがわからないけれど、自分の中では一本の線でつながっていて、ものすごく必死なのです。悪い可能性をとことんゼロにしたい。お父さんが戦場で死んでしまうなんてことがないようにしたい。「お父さんが死ぬ可能性はゼロではない」のなら、どんな無茶もするのです。こういう時にこそ、「お父さんが死ぬ可能性はほとんどないんだよ」と、子どもにもわかるように言って、安心させて欲しいものですよね。