出 版 社: 講談社 著 者: 市川朔久子 発 行 年: 2016年04月 |
< 小やぎのかんむり 紹介と感想 >
以前、上司からパソコンを投げつけられた、という方がいると聞いたことがありました。ひどいパワハラ上司がいるものだと驚いたものです。ただ、フラットに考えると「上司にパソコンを投げつけさせる」ほどの行為を、その方がやった可能性も高いのです。片面からしか物を見ないことが判断を誤らせることは多いものです。この物語は、父親に対して「死ねばいい」と言ってしまった中学生の女の子が主人公です。そこだけ聞くと、なんてひどいことを言う子だろうと思うし、その言葉に激怒した父親にも同情します。ただ、そこにいたるまでの彼女の心情をトレースしていくことで、考えは変わります。そして、「死ねばいい」と親に言ってしまったことで苦しんでいる彼女を、この物語に登場する大人たちのように「そんなの全然、気にしなくていいから」と受け流してあげたくなるのです。道徳的な正しさよりも大切にすべきことがあります。この物語は、複雑な関係にある父娘が、互いを理解しあい心を通わせる、なんてことは放棄しても構わないという潔い結論を見せてくれます。彼女を生かすためには旧来の倫理観や物語のセオリーを覆すしてもいいのです。厄介な親とは和解しなくても構わない。これは、時代に即応した児童文学のムーブだと思います。篠原まりさんの『マリオネット・デイズ』(2006年)や、草野たきさんの『メジルシ』(2008年)など、親との「あるべき関係」の考え方を解体した先駆的な児童文学作品がありました。「毒親」という概念が一般化した以降の児童文学は、さらにこの傾向を加速させていくのだろうと思います。繊細さの鋭い切っ先は危うく、鈍感になれない主人公を傷つけてしまう。そんな子どもたちを、児童文学は、どう守ってあげることできるのか。それには旧来の良識を蹴飛ばす勇気が必要なようです。
田舎のお寺でのサマーステイに夏芽が申し込んだのは、夏休みに家に居たくなかったからです。交通事故の怪我の療養のために仕事を休んで家にいる父親と顔を合わせたくない。家から遠くて、料金が安ければどこでもいいと、そんな思いで、家出半分に飛び込んだのが、このサマーステイの企画でした。ところが参加者は夏芽ただ一人で、スタッフの大人の方が多いという、おかしな事態が待っています。それでも家に帰りたくない夏芽はここに留まることにしました。父親との確執はかなり深刻だったのです。母親は言いなりで、父親に従うだけ。尊大で傲慢な父親の威張った言葉が気に障るためか、精神は不安定になり、拒食を起こすこともあった夏芽。幼い頃からずっと父親の言葉や態度に傷つけられてきた夏芽は、友だちのことを酷く言われたことで、ついにキレてしまったのです。そして逃れてきたこのステイ先のお寺で、偶然、お寺が預かることになった、虐待を受けている男の子、雷太や、近くに住む高校生、葉介と彼が連れてくるヤギたちや、お寺の人たちと関わり、夏芽は自分を見つめ直していきます。自分に責任を感じ、傷ついていた夏芽が、人との交流の中で穏やかに回復していく、そんな一夏の物語です。いや、自分が自分であるための戦いはこれからなんだよなあ、とやや途方にくれます。
「殴る父親」や「怒鳴る父親」がスタンダードな時代もあったかと思います。それが社会に許容されなくなったのは、時代の趨勢であり、文化的な成熟です。夏芽の父親は、外面は良いのに、家族に対しては尊大かつ傲慢にふるまいます。それでも、まだ「厳格な父親」の範囲内にいる人のようにも思えます。家族に愛情を持っているし、心配もしている。ただ、その表現や態度に、実際、娘は傷つけられています。さて、この状況への現実的な対処方法はどこにあるのか。モラハラやDVとして問題になる程度ではない、緩慢な虐待。ここで物語が提示するす解決方法が見どころです。とかく威張りたがる人や上から見下したがる人は、世の中には沢山いるものです。厚生労働省の働きかけによって、近年、職場でのハラスメント防止に対する対策は積極的になってきています。自分も会社で、ハラスメント防止のチェックテストを受けることがありますが、結構、難しいのです。人を傷つけそうなものはダメと回答しておけば良いのではと考えがちですが、例えば、宴会の翌日に仕事に遅刻してきた部下を他の人たちの前で叱ることは・・・パワハラではないのです。当然、叱るべきときには叱らなければならない。ところが愛情を込めた、教育的指導のつもりで、人の心を踏みつけ、自信を喪失させていくこともあります。家族の関係性の中で考えていくと、より難しいものですね。ところで「死ねばいい!」は『エリザベート』のトート閣下の決め台詞ですが、これが愛の言葉であるというのは、コンテクストの妙というものでしょう。