忘れもの遊園地

出 版 社: アリス館

著     者: 久米絵美里

発 行 年: 2022年08月

忘れもの遊園地  紹介と感想>

この物語を読んでいて思い出したのが、大井三重子さんの『めもあある美術館』(短編集『水曜日のクルト』収録)です。かつて教科書にも採用されていた作品なので、ある年代の方たちの記憶の片隅には、まだ潜んでいるかもしれません。『水曜日のクルト』は、1961年に刊行され、偕成社文庫にもラインナップされていましたが、しばらく絶版期間があり、2009年に復刊されるまで伝説的に語られてきた一冊です。何か特別な賞をとるなど評価された作品ではないものの、ずっと語り継がれてきた、読者の記憶の中で輝いていた作品集です。特に『めもあある美術館』は印象に残る作品でした。むしゃくしゃした気持ちを抱えた主人公の少年が、不思議な男性に声をかけられて訪れた美術館には、数えきれないほどの自分の過去の記憶(メモアール)が絵として展示されていました。そこには、誇らしい気持ちを抱くような楽しい思い出も、目をつぶって通り過ぎたくなるような辛い思い出もあります。これを過去から時系列で少年は見ていくのですが、読者としては、この不思議な状況に次第に恐ろしさを覚えてしまう、というのは、日本児童文学ファンタジーに通底する感覚です。入ってはいけない領域に踏み込んでしまった不穏な予感。本書もまた次第にマズイ場所にいることに気づく恐ろしい物語です。それが思い出してはならない「記憶」であるところが実に蠱惑的なのです。それほど長い人生経験があるわけではなくても、子どもなりに封印しておきたい記憶があります。大人であればやり過ごせるだろう気持ちも、小さな器に注がれるとオーバーフローしてしまうものです。忘れることは、人生の処方箋であり、抱えすぎていることの多難さを思います。などと思うのは自分が子ども時代の失敗や後悔に未だに苛まれているからでしょう。本書もまた、実に痛いところをついてくる記憶の物語です。忘れてしまった記憶がとじこめられている場所は、美術館ではなく、遊園地です。だからといってそこは楽しい場所ではなく、むしろ、辛い気持ちと向き合わされる場所なのです。むしろ忘れたままの方が楽なのではないか。勇気を奮い向き合うことがやはり肝要なのか。その答えを読者に問いかける物語です。

学校に提出しなければならないプリントを忘れてきたことを登校中に気づいた六年生のトラタ。そんな彼に声をかけてきたのは、長い白髪まゆげのおじいさんでした。忘れたものを渡す代わりに、忘れてしまいたい記憶をひとつくれないかという取引に応じたトラタは、昨日、同級生のレミをうっかり言葉で傷つけてしまったことを受け渡し、忘れてしまいます。レミは登校してきたトラタが自分を傷つけたことを覚えていないことを腹立たしく思います。そんなレミもまたピアノの月謝袋を忘れて、あのおじいさんと取引をすることになります。レミが忘れてしまいたかったのは、お母さんをひどいことを言って傷つけてしまったことです。お母さんの様子がずっとおかしいことにレミは気づいていました。お父さんの母親であるお祖母さんの機嫌を損ねないように努め続けているお母さんは、大きなストレスを抱えていたのです。そんなレミのお母さんもまた忘れものをして、あの老人と取引をすることになります。お母さんが忘れたいと申し出たものが、自分自身、であったために、お母さんは自分が誰かを忘れてしまい、この世界に戻ってこれなくなります。レミとトラタ、そしてトラタの姉のツバメは、レミのお母さんを追って『忘れもの遊園地』へと赴きます。そこは人間に忘れられたもので出来たアトラクションのある遊園地でした。三人は遊園地を巡り、懐かしい記憶と遭遇しながら、レミのお母さんを探して、自分が誰かを思い出させようとします。しかし、レミとトラタもまた、過去にあった辛い思い出を忘れ去っていたことに、この場所で気づかされるのです。忘れていた方が幸せだったかもしれない、その記憶に、二人はどう対峙していくのでしょうか。

人間の記憶とは何か。その不思議な脳のロジックが紐解かれながら、物語が進展していきます。記憶は言語化されるものだけではありません。身体的な動きや、匂いなどの感覚と結びついていて、何かのきっかけが人の記憶を呼び覚ますこともあるそうです。逆に、忘却とは、記憶がなくなることではなく、脳がその記憶にアクセスできなくなること。もし、忘れてしまいたいことがあれば、方法論としての忘却術もあるのだと、長い白髪まゆげのおじいさん、その正体である、忘れもの遊園地の園長は言うのです。人が忘れたものを蓄積して出来た、この遊園地のために、園長は人の記憶を奪っています。ただ、それは非道なことなのかどうか。辛い記憶を抱え続けることに人は耐え続けなければならないのか。記憶の痛みを和らげる方法についても、この物語の中で言及されていきます。セラピーとして辛い出来事を忘れさせることもあります。かならずしも、辛い気持ちに正面から立ち向かい乗り越えることだけが、人に求められることではないでしょう。この物語の結論は、どこに落ち着くべきか。痛みはケアされて然るべきだと思います。ただ、同じ痛みを分かち合い、忘れずにいることが、人と一緒に生きる歓びをもたらしてくれるものでもあります。記憶こそが人の生きた証なのか。読者に大くを問いかける物語です。記憶をめぐる物語もまたコレクションしてみたいところです。