殺人者の涙

Les larmes de l’assassin.

出 版 社: 小峰書店 

著     者: アン=ロールボンドゥ

翻 訳 者: 伏見操

発 行 年: 2008年12月


殺人者の涙  紹介と感想 >
ザンパノとジェルソミーナと綱渡り芸人、と言えば、フェリーニ監督の『道』の登場人物です。この物語を読みながら、頭に浮かんでいたのは、この三人の関係性でした。「この世の果て」で暮らす三人。この物語に登場するのは、ザンパノのような無骨で気の荒い大道芸人どころか、もっと残虐な殺人者です。でも、彼にも流す涙がありました。ザンパノの最期の号泣のように、これまで経験したことのない突然の感情に貫かれて、思わず涙を流してしまう。そんな哀しい類似点。冷酷な人間が心をとりもどす瞬間。いや、あらかじめ失われていた何かを、やっと手に入れた刹那、自分の非道さをまざまざと思い知り、罪の意識に苛まれる。それは、無自覚に悪なる存在だった時には感じなかった痛みです。自業自得、とはいえ、恩讐の彼方に、はじめて芽生えた人間らしい心がきしみ、悲鳴をあげる。切ない場面ですね。いくつかの魂が運命に翻弄される悲劇を見守り、そしてその向こう側にある心の深淵を知る、物語の愉悦。秀逸な作品揃いの小峰書店のレーベル、Y.A.Booksに新たな傑作が加わりました。

男の名前は、アンヘル・アレグリア。「天使(アンヘル)」と「歓喜(アレグリア)」という皮肉な名前を持つ、ならず者。これまでに多くの人間を手に掛けてきた、この殺人者が逃れてきたのは、チリの最南端にある最果ての家。そこに住む夫婦をナイフで虐殺したアンヘルは、自分が何歳かも答えられない、夫婦の幼い息子パオロの命を「ガキはまだ殺したことがない」という理由で奪いませんでした。そこには人並みに憐れみの気持ちがあったのかどうか。殺した夫婦に替わり、最果ての家に住み着いたアンヘルは、パオロと一緒に、畑を耕し、羊を飼い、静かな生活を送るようになります。不気味な影だけが渦巻く世界に暮らし、ナイフと自分の力だけを信じてきた男。これまでに数々の恐ろしい罪を犯してきたアンヘルが、まさか子どもの父親がわりを務めるようになるとは、一体、どうした運命の気まぐれか。やがて月日は流れ、いつしか擬似親子となった二人の前に、一人の旅人が現れます。裕福なワイン商の息子、クリス。彼は三十一歳にもなって、いまだ自分の人生から逃げ続けている男。金はあるが、自分を見失っている気弱な男は、世の中からの隠れ家のような二人の家に滞在することになり、時にパオロに文字を教えてくれたりもします。アンヘルは、パオロがクリスになつくことに、激しい嫉妬を覚えます。パオロはいたって邪気もなく、両親を殺害したアンヘルとも不思議な信頼関係を築いていました。殺人者アンヘルは、パウロのおかげで、その荒んだ生涯に、一度も自分に寄せられたことのない「信頼」に、うろたえ、舞い上がっていました。小さき者を慈しむ気持ちが、まさかこの殺人者の心に芽生えるとは。邪魔者は、クリス。いつかクリスを葬ろうと考えるアンヘル。しかし、この三人の暮らしに転機が訪れます。その危ういバランスは、いかにして壊れてしまうのか。殺人者、アンヘルの運命はどのような結末を迎えるのか。深く感じさせてくれる、読みごたえのある物語です。

物語は、青年になったパオロが、かつて殺人者と暮らした家を訪ね、今は無人となっている家で、新しい家族をつくり、暮らしていく場面で終わります。このラストが凄く良いんですね。道理を超えた物語の設定を呑み込ませ、その不思議なイメージに心地よく惑ってしまうのは、パオロのイノセントな存在感のおかげ。彼は、青年となっても、その無垢な感性を失ってはいません。殺人者の、いびつで不器用な愛情を注がれて育ったパオロ。殺人者に改心はなかったかも知れないし、もともと常軌などは存在しなかったのかも知れない。ただ、この世の中には、甘美で、いとしむべき感情があって、それに貫かれた殺人者は、暗黒面だけの人生から救い出されました。無論、犯した罪の罰は受けなければならないのだけれど、最果ての荒野のような人生に、かすかに灯った慈しむべき光は、希望なき人生の希望ではなかったか。新しい命が誕生し、人を慈しむ気持ちもまた永続していきます。不合理な物語ではあるのだけれど、不思議とあたたかな気持ちに胸を満たされます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。