出 版 社: 小学館 著 者: マイケル・モーパーゴ 翻 訳 者: 杉田七重 発 行 年: 2015年08月 |
< 月にハミング 紹介と感想 >
読み応えあり。とても心を動かされる作品です。世界を揺るがした歴史的な事件。そこには、巻き込まれた多くの一般市民がいました。戦争の惨禍は、否応なく普通の人々に降りかかります。そして過酷な時代を生きた人々は、重く悲痛な選択も強いられます。極限状態で、人間としてどうあるべきかを問われる。まあ、生涯、問われたくないものだと思います。例えば、自分たちが暮らす島に敵国の子どもが漂流してきたからといって、冷遇し、迫害していいものなのか。この島からも何人もの若者が出兵し、命を落としています。戦争反対の立場をとることさえ難しい時勢です。人としてよりも、国民としてどうあるかが優先される。それでも、友愛を貫けるものなのか。大勢に惑わされず、正義と信じることを為す。そこに奮われた勇気がいかに尊いかは、自分自身を省みれば分かることでしょう。この物語には、稀有な魂を持った人たちが登場します。人を慈しみ、慮ること。決して見捨てず、寄り添うこと。市井の人々の強靭な意思。これこそが「優しさ」です。ギリギリの局面であっても、人に優しくできる強さについて。非常時にあって、ごく普通の人間のままで揺るがず、優しくあること、その勇気を思います。
1915年、ドイツの潜水艦がアメリカの客船ルシタニア号を撃沈します。アメリカの第一次世界対戦への参戦のきっかけともなったと言われる大きな事件。この船に偶然、乗り合わせたことで、多くの人が運命が捻じ曲げられました。イギリスの病院に入院した従軍中の父親に会うため、ニューヨークからこの船に乗ったメリーの運命もまた。大西洋を横断し航海を続けてきた船は 、南アイルランド沖でドイツ軍にわずか十数分で沈められ、二千人近い犠牲者を出しました。母親が海の中に消えていくのを見送ったメリーは、漂流しながらも、偶然の成り行きで生き延びます。それでも、そのショックは計り知れず、自分が誰かもわからなくなったメリーが口にしたのは、ルシタニア号の愛称であるルーシーという名前です。これは、どこの誰かもわからないルーシーという少女を守るために、勇気を奮った人々の記録です。多くの不安と疑心暗鬼が普通の人たちの心を苛んでいた時代。シリー諸島の漁村に降りたったルーシーは、何者かわかりません。幽霊や人魚であったならまだしも、もし敵性外国人であるとしたら。読者は、彼女の素性を知らないまま、それでも良心のもとにルーシーを守り続ける人たちの輝く勇気を見守ることになります。そして歴史のうねりに翻弄された少女の数奇な運命に、深く胸を突かれることでしょう。
物語の舞台となっているイギリスのシリー諸島が魅力的です。子どもたちが島々から船に乗って学校に通う風景や、多くの漁船が行き来する、豊かな海の香りのする漁村の生活。サバを釣りに船で出かけたアルフィ父子が、偶然、痩せた女の子を見つけたのは、かつての伝染病の隔離島として知られるセント・へレンズ島。そんな恐ろしげな場所もここにはあります。何もしゃべらなかったルーシーは、蓄音機のモーツァルトに反応します。そして、学校のピアノを颯爽と弾きこなし、月にむかって美しい声でハミングするのです。そんな音楽が島々の美しい風景と相まって響き渡ります。起点となる現代から回想される物語。メリーはルーシーになったことで、その後の人生を違った形で生きることになります。物語を読むことは、ただ文字を目で追うだけなのですが、景色や音楽や時間の経過への感慨が自分の中に流れ込んできます。この豊かなイメージを味わうことが、読書なんだなと、今さらながら思います。