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出 版 社: 飛鳥新社 著 者: キム・ソンミ 翻 訳 者: 矢島暁子 発 行 年: 2025年07月 |
< ビスケット 紹介と感想>
透明感のある人というのはほめ言葉だけれど、存在感のない人というのは、そうではないようです。存在感はあった方が良いとされています。存在感の有無とは、他人からの評価です。自分が存在しているのは自明のことですが、人からはその存在が希薄に思われることがあります。それもまた失礼な話です。ましてやそんな他人目線に自分の存在自体が揺るがされるなんて不本意でしょう。とはいえ、弱っている心は容易に砕けてしまうものなのです。本書は、人から気にされなかったり、自尊心を損なわさせられることで存在感がなくなっていき、やがて目に見えなくなってしまう現象が描かれます。そんな他人本意な存在感で良いのか。その当事者は「ビスケット」と呼ばれています。ビスケットのように砕けて、粒子となって人には見えなくなる。これには段階があります。自分の存在を故意に、あるいは無意識のうちに否定されることで、ビスケット化は進んでいきます。対策は、自分の存在感をアピールすることです。とはいえ、人から否定や無視され続けてきた自我は、自分自身の存在を肯定することができなくなっています。本書の主人公たちは、こうしたビスケットたちを早期に救い出し、存在感を取り戻させようと活動しています。自分は自分としてここにいることは自分としては確実だと思っていますが、人からの評価で自信を無くして、存在が揺らいでしまうことも往々にしてあることです。目立ちたくないし、いい加減、誰からも気にされたくないと思うものの、全く無視されるのもしゃくにさわる、なんて反骨心があるうちは大丈夫。実際、存在感があろうとなかろうと自分は自分です。まずは他人の評価に揺るがされない自己肯定感が養われている必要がありますが、そこまでの苦闘の日々こそがヤングアダルト作品の描き出すものです。自分たちもまだ不確定で揺らいだ存在である少年少女が、ビスケットを救おうとする。その背景にある心のドラマが読みどころです。
高校一年生の男子、ジェソンは音に対して過敏すぎるため病院で治療を受けながらも、その鋭敏な感覚で、ビスケットを見つけ出す活動を行っていました。ビスケットとは、人から無視されたり、否定されることで自尊心を奪われ、自分の存在感を失くして、やがて人から見えなくなってしまう状態の人たちです。ジェソンは保育園の頃からの信頼のおける友人であるドクゥンとヒョジンの二人と一緒に、ビスケットを探し出し、その進行をくい止めようとしていました。その存在が消えかかっているビスケット予備軍に、声をかけて話をする。ビスケット化を防ぐ対策は、まず人と繋がる方法をアドバイスすることです。リアルでもSNSでも、何らかの方法で社会と関わって、活動し、自分自身を尊重できるようになればビスケット化は止められるのです。さて、そんなふうに消えかかっている子どもたちを救う日々を送っているジェソンでしたが、自分の住むマンションの上階の住人の騒音に悩まされていました。音には人一倍、敏感なのです。そのことで上階の住人とトラブルを起こし、父親に叱られて、叔母のマンションに退避することになります。しかし、そこでも上階から不審な音が聞こえるのです。父親から子どもが虐待されてビスケット化しつつある状況を掴んだジェソンは、なんとかその子を救いだそうと行動し始めます。しかし、出生届も出されていない、いないことになっている子どもを救い出すことは困難です。ビスケットの存在だって大人に信じてもらえないのです。友人のドクゥンやヒョジンとともにジェソンは無茶な救出計画を実行します。そうした中で、ジェソンは自分がどうしてビスケットを救おうとするのか、その動機と向き合うことになります。
韓国ドラマや映画を見ていて、気になるのが「兄貴」文化です。他人であっても、親しい年長者の男性を「兄貴」と呼んで慕う。日本でも、欧米でも、そうした関係性はありますが、韓国の「兄貴」文化はもっと濃いようです。トロット(韓国歌謡)に「テス兄貴(テス兄さん)」という、ソクラテスを兄貴と呼んで、人生を問いかける凄い歌がありますが、この兄貴感覚のユニークさを思います。そして「俺のことを兄貴と呼べ」という兄貴肌の人物が、どこか頼りないタイプだったりするあたりも物語の人物造形上では面白いところです。本書に登場するチェソン兄さんもまた、兄貴風を吹かせつつ、ちょっと信用できない、いい加減さを持っている調子の良い人物です。ジェソンの友人のヒョジンの従兄弟ですが、いい年をして、就職もせずにフラフラしているアニキです。そもそも働かずに配信で一山当てたいなんて了見はどうか、なんていうのは偏見ですが、弟分や妹分たちにやや疎まれているあたりもいい味です。いずれにせよ、そんな兄貴的存在がいることは、物語を面白くして、さらに人生にとっては少なからずプラスに働くものかと思います。面倒臭い人ですが、積極的に絡んでくるものだから、自分の存在感を失くしている暇を与えられないのです。このチェソン兄さんが、ジェソンにビスケットが見えることを聞きつけて、ネタにして配信をバズらせようと目論み、それがまた功を奏する展開になります。人間関係というものは面倒ですが、人間関係がないと、自分の立ち位置を把握できなくなって自分自身を見失ってしまうことはよくあります。新型コロナ当初、急な在宅ワークでメンタルバランスを崩した人が多くいました。一週間で発した言葉が、コンビニで「袋いりません」と言っただけだった、なんていうのは笑い話なのか、没コミュニケーションの惨状なのかはわかりません。自分の存在感を失わないために、自尊心を保ちながら、人とより良い関係性を築く。それは存外、難しいことです。アニキあってのオレ、となってしまうと依存しすぎですが、オレとアニキの適切な距離感のある兄弟船について考えを巡らせているところです。程よいパートナーシップなのでしょうね、そこは。信頼できる人を見つけられることもまた、自尊心を高める方法なのかもしれません。
