ヨルの神さま

出 版 社: 講談社

著     者: 樫崎茜

発 行 年: 2008年11月


ヨルの神さま   紹介と感想  >
コンビニ前に設置された公衆電話が突然に鳴りはじめる。偶然、前を通りかかった少年、恵は、ついとってしまった受話器から、「ヨルの神さま」の存在を告げられます。それはただの間違い電話だったのでしょうか。「ヨルの神さま」とは一体、何者なのか。夜の公園に出没するという、その謎の人物について興味を持った恵は、家族に隠れて調査を開始します。中学校と塾を往復するだけの毎日。特別、成績が良いわけでもなければ、勉強ができないわけでもない。小学生の弟のように目を輝かせながら勉強することも、なにかに夢中になることもできない自分を持てあましていた恵は、「ヨルの神さま」という不思議な存在に気持ちを惹かれていきます。紆余曲折あって、最終的に恵は「ヨルの神さま」の正体を知ることとなり、その「違法行為」に手を貸すことになってしまいます。この「違法行為」のもたらす被害金額は、おそらく千円以上~五千円未満という程度の軽犯罪ですが、そこには、恨みや、義侠心や、もう少し複雑な動機が隠されていました。通弊した倫理感にナイフを突きつける、子どもが危ういグレイゾーンと出会う瞬間を見せてくれる実に恐るべき作品です。

恵はファミリーマートのチキン(ファミチキ)が好きで、これを食べることだけが人生の楽しみです。勉強もそこそこだし、学校はつまらないし、夢中になるものもない。日々、退屈している。そんな彼が、唯一、情熱を持って語ることができるのが、買い食いしているチキンの美味しさなのです。中学生男子の人生の救いなんて、そんなことかも知れないし、それでいいような気もします。ところが、その大好きなファミチキもさえも値上げされてしまい、世の中が経済的に逼塞していることを恵は知ります。子どもにとっての「社会経済」とは、コンビニのチキンの値段であったりするのですね。不景気の失速感は、世の中を黒く覆い尽くしています。塾の先生が、リストラで仕事を失い、失意に沈んでいる姿を子どもが見てしまうのも世知辛い現実。先生は勤め先だった塾に対して恨みを抱いています。恵のお父さんは、その塾の経営層で、リストラを決めた人間であるがゆえに、さらに思いは複雑です。そんな大人同士の邪気にあてられてしまう子どもの不幸というものを思います。世の中には、理不尽なことや、悪意の皺寄せや、邪念やマイナスの感情が存在します。人に嫌がらせをするような意地悪もあれば、妬み、嫉み、やっかみなども沢山ある。そうしたものを、子どもに受け止めさせる、というのは重いことですね。善悪の二元論だけでは語りえないものが世の中にはあって、子どもたちをとりまく、これまでになく複雑な世相を表現した物語となっています。光を殺されたこの物語空間には思わず息を飲まざるをえません。

この作品を読み終えた後、すごく気持ちがダウンしてしまって、どうしてなのかとずっと考えこんでいました。子どもが世知辛さに直面するということ、また、それが児童文学で描かれるせいなのか。人生の受難は往々にしてあります。経済的苦境にさらされた子どもたちの物語が、児童文学の題材として主流だった時代もありました。しかし、その頃の作品とは違った印象をこの『ヨルの神さま』には与えられるのです。児童文学には、そうした苦境を、どのように物語として昇華させてくれるのかという期待があります。しかし、本作では、胸に重い印象が残されたまま物語が終わり、ただ荒涼とした後味だけが残されます。この作品はグレイゾーンをテーマにしていると作者はあとがきで書かれています。赤信号は守ったとしても、黄色信号ならあえてアクセルを踏んだほうがいい。ちょっと制限速度オーバーしているぐらいの方が交通渋滞を生まない。「ヤミ米」のおかげで日本国民は戦後の飢餓をしのいだように、清廉潔白なだけが処世術ではない、ということかも知れません。ダークな領域にまでは踏みこまないまでも、グレイの領域をどのように呑みこむべきか。これが児童文学で語られます。これは難題です。正邪をはっきりさせる。善悪をきっちりわけて、是を是とする倫理感「だけ」では世の中をわたっていけない、という現実を見せてくれる作品。かつて児童文学は、子どもたちのサイドに立った作家が、この社会と闘う姿勢を標榜してきました。しかしここで作者は、子どもたちのアドバイザーとして、この閉塞したリアルの生き抜き方を考えさせようとするのです。児童文学の新しいスタンスがここにあるのかも知れません。