with you

出 版 社: くもん出版

著     者: 濱野京子

発 行 年: 2020年11月

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語りたいことが沢山あります。そんな気持ちにさせられる物語です。中学生同士の決してイージーではない恋愛を描いた物語の真摯さ。人が人を好きになっていく気持ちの綾が繊細に編み込まれていく展開には、初恋の慄きがあって、淡い痛みを覚えます。主人公の中学三年生の少年、悠人の家族に対する愛憎やコンプレックス。そして、子どもながらに家族のケアをしなければならない「ヤングケアラー」という状況下にいる朱音について。こうした要素が混然となり、ビターで甘やかな物語に陶然とさせられながらも、現代社会だからこそ見えにくくなり、孤立化していく子どもの問題点が浮き彫りになっていく見事な構成です。無論そこから人が友愛を持って、支え合いながら生きていく未来も予見させられます。この物語、八束澄子さんのホワイトレイブンにも選出された秀作『明日のひこうき雲』と設定上、いくつもの共通点があります。悠人が好きになる中学二年生の女子、朱音の境遇は、『明日のひこうき雲』の主人公で同じ中学二年生の遊と非常に似通っています。とはいえ、まったく違う手触りの作品となっており、物語の帰結も、その感慨もまったく別のものになっているのが面白いところです。主人公の視点が困窮する彼女を見守る男子側にある、という点は無論あるのですが、境遇は同じながら、遊と朱音の性格の違いも大きく作用しています。また、問題点の解決策について、福祉や社会制度を活用することを子ども自身が意識していく展開も肌合いの違うところです。社会制度を知ることで子どもたち自身が自助を進めていくあたりは、昨今の新しい国内貧困児童文学作品の中でも言及されていることで、児童文学の新たなトレンドになっているものと思います。ともかくも、とても目の詰まった作品です。大変な時期ではあるのだけれど、中学生ってちょっと良いよねと思わせる、これは、珍しい感慨です(たいていの児童文学作品は、自分が中学生でなくて良かったと胸を撫で下ろす読後感が多いものなので)。

高校受験を控えた中学三年生の悠人が、夜、気晴らしにジョギングをするようになったのは、胸の中にわだかまるものがあったからです。それは受験のストレスだけではなく、家族の問題でした。父親は別居状態で家を顧みず、経済的にも豊かではない状況。また、学業成績が優秀な兄のようには、自分が家の中で認められていない疎外感がありました。優等生として学校でも有名だった兄は、それに比べられる弟の立場としては迷惑でさえある存在です。両親に兄のようには愛されていない気持ちが、悠人にはつきまとっています。志望校をワンランク落として、兄とは違う高校を受けることを決めたのも、どこか屈折した気持ちがなかったか。そんな胸の塞がるような思いを吹っ切るように、夜のジョギングで、違う中学の学区の地域まで足を伸ばした日、悠人は公園のブランコにぽつんと座った淋しげな同じ年頃の女の子を見かけます。その姿が気になり、数日後の夜に再び公園を訪れた悠人は、同じようにブランコに座る彼女に声をかけます。素っ気なく悠人に接する女の子、朱音は悠人とは違う中学の二年生だということは教えてもらえたものの、悠人を警戒してか、多くを語ろうとはしません。打ち解けられないままに数日が経ったある日、悠人はスーパーで小さな妹を連れた朱音に遭遇します。朱音のその手慣れた買い物の様子は、彼女が内緒にしていたことに関わっていました。それは家の手伝い、ではなく、彼女が全ての家事を担っている状態であること。くも膜下出血で倒れた母親には麻痺が残り、鬱状態になって、ずっと伏せった状態であること。父親は単身赴任で家に居らず、朱音が家族の面倒を見ていることを、やがて悠人は知るのです。普通の中学生のような毎日を送れない彼女の、どこか思い詰めたような、淋しそうな様子に、悠人は同情以上の気持ちを抱いていくようになります。悠人と朱音は次第に心を通わせいきます。が、この気持ちが同情なのか、好意なのか、自分の淋しい気持ちを共有したいだけなのか、悠人は自分自身の気持ちも計りかねながら、朱音に惹かれていきます。しかし、朱音はそんな悠人のことをどう思っていたか。渾身の告白に対して、もう会わないと朱音に告げられた悠人が、自分を見つめ直していく、その先にあるものは何か。是非、手に汗を握りながら二人の行く末を見守っていて欲しい物語です。

中学生二人のなかなか進まない恋愛の行方が気になるところですが、二人とも真摯で、真面目で、どこか昭和時代のジュニア小説を思わせるのが濱野京子さんのYA作品の手触りだと思っています。悠人は朱音の境遇を知ることで、人権や平等など社会問題に関心を寄せていき、受験勉強としてだけでなく公民という教科に興味を持ちます。朱音のような家族のケアに忙殺されている子どもがサポートされる現実的な手段を探るため、福祉関係の仕事をしている母親に、悠人は「相談する」という勇気を奮います(この年ごろの子どもが苦衷を誰かに打ち明けるということのハードルの高さを改めて思い出します)。子どもながらに家族の世話をしている「ヤングケアラー」という存在についてスポットを当てた物語です。ジョー・コットリルの『レモンの図書室』は心身を病んだ父親のケアをする少女を描いた物語であり、ヤングケアラーの自助グループの活動なども詳らかにされています。海外作品ではこうした題材を目にすることも多いのですが、国内作品ではまだ挑戦的なものを感じます。一方で、かつての児童文学の中では、両親が病気であったり、いないことで、幼い弟や妹を面倒をみたり、親にかわって家を切り盛りするような状況下にいる子どもたちが描かれてきました。可哀そうな子どもの物語としてのロマンではなく、現代日本の現実として存在するヤングケアラーを社会的な問題としてとりあげ、「支援されること」を意識させることもまた、児童文学で描かれうるのだと感じ入るところです。自分も小学生の時分に母親が亡くなってから、それなりに家事ワーカーとなっていたのですが、その渦中では、全く客観的に自分の状況が見えなかったものです。子どもたちをめぐる周囲のサポートやメンタルケアの制度は随分と整ってきたという印象ですが、やはり子どもにとっては、自分には助けが必要だと、誰かに伝えることには障壁があります。君には助けが必要なのだと、語りかける物語であり、困窮している自分をも赦してもいいのだと、そんな気持ちを与えてくれる作品となるのではないかと思います。そんな読者と共にある物語。読後にタイトルを改めて思い出すと、どうにも甘やかな気持ちが湧き上がるはずです。いろんな場所に一緒にいこう。いろんなものを一緒に見よう。誰かを思いやりながら大切な時間を過ごし一緒に生きていく。そんなあたり前で素敵な気持ちに胸が満たされる、読後感を是非、味わって欲しい作品です。