出 版 社: 福武書店 著 者: 湯本香樹実 発 行 年: 1992年05月 |
< 夏の庭 紹介と感想 >
田舎の祖母の葬式に出るためにしばらく学校を休んでいた、でぶの山下。教室に戻ってきた彼は、にわかにヒーローとして脚光を浴びます。何故なら、山下は「人間の死体を見たことがある奴」になったからです。小さな頃に一度会ったきりの祖母の死には悲しみもなく、ただのイベントとして体験した葬式の様子を同級生に話して聞かせる山下。小学六年生の男子たちは、自分も死体を見てみたいと胸を高鳴らせます。どうしたら人間の死体を見られるのか。近所で、もうすぐ死にそうだと噂されている、あの一人暮らしのおじいさんの家を見張ろう。そして自分たちが死体の発見者になればいいのだ。木山と河辺と山下のトリオは、おじいさんの家の前で張り込みを始めました。苔むす塀の向こうに見えるのは、手入れのされていない、荒れ果てたゴミだらけの庭。家の中では、おじいさんが夏だというのにコタツに入ってテレビを見ている様子が曇りガラスごしに伺えます。早く死んでくれることを待ちわびながら、探偵のように見張り、尾行する三人は、だんだんとおじいさんの生活形態がわかってきます。いつもコンビニで二つお弁当を買うのは晩と朝に食べるためらしい。おじいさんがあまりいいものを食べていないことを気にした魚屋の家の子の山下は、家の前に魚を置いてくるなんてこともはじめます。だんだんとおじいさんの生活に近づいていく三人。核家族で暮らす都会の少年たちと過去を背負い生きている孤独な老人のひと夏の邂逅。人が死ぬということに少年たちが正面から向き合い、生きることを真摯にとらえていく、そんな夏が始まります。
思いもかけず、おじいさんに直接アプローチしてしまい、家に出入りするようになった三人。親しくなってわかったのは、おじいさんはけっこうずぶとくて、殺したって死にそうにないタイプだってことです。三人が家にやってくるようなって、おじいさんはちょっと行動的になっていきます。家のまわりのゴミを三人と一緒に片づけ、庭を整えていく。子どもたちも自腹を切って、庭に花を植えようとします。だんだんと子どもたちのたまり場となっていく、おじいさんの家。すっかり打ち解けた三人は、おじいさんに戦争に行ったときの話をせがみます。しかしそれは、とてもこわい話でした。南洋の戦地で、自分たちが生き延びるためとはいえ、民間人を虐殺したおじいさんの過去。その心の重さから、戦争が終わっても家に帰ることができず、自分が行方不明になることで、奥さんとも別れてしまったというのです。いつの間にか、おじいさんに喜んでもらうことに夢中になりはじめていた三人は、別れた奥さんを探しだそうと、全力で余計なお節介まで焼き始める始末。しかし、タイムリミットがきてしまいました。自分が夏休みに体験してきたことを、おじいさんに話したいとワクワクしながら、久しぶりにおじいさんの家を訪ねた木山は、縁側で眠るように死んでいるおじいさんを発見することになるのです・・・・・・。
死の実感。そんなものを感じないで済むのなら越したことはないし、未来ある子どもには可能な限り伏せておく、という選択肢もあります。都市部でシュリンクされた衛生的な生活を送る子どもたちにとって、むき出しで生々しい人生の体験は刺激が強すぎます。そこには悲劇や、露骨な暴力や、あっけない死がある。しかし、悲しみや死もまた裏腹にあってこその生であり、死を意識することで、生の有限性が輝くこともあるのです。大人たちがこれまで命がけで生きてきた時間に心服し、その苛酷な人生を労しく思うこともまた、大きな糧となる。魚屋の家の子の山下が、小さなケガをしながらも包丁に慣れていったように、危ないからといって近寄らなければ、一生得られないものもある。少年たちは、この夏、かけがえのない命の重みを知ります。失うことの痛みに耐えて、生きることを輝かせるすべを学ぶのです。それぞれ、どこかアンバランスなものを抱えていた少年たちは、この夏の出来事を糧に成長していきます。刊行当初に読んだ際には、この見事に整った作品の精巧さに理知的すぎる印象を覚えました。しかし、今回の再読では、あらぶる強い気持ちと情熱を感じました。僕もここ数年、何人かの近親を見送ることになり、死に対する心境が少し変わったこともあり、共感が強まったのかも知れません。死は人間にとって、絶対的なものですが、死生観は変わります。目をそらざず、子どもたちにも正面から死を、明日を生きるために捉えさせる必要を感じます。