サマータイム

四季のピアニストたち

出 版 社: MOE出版

著     者: 佐藤多佳子

発 行 年: 1990年07月


サマータイム  紹介と感想 >
夏休み。空に浮かぶ巨大なグレイの雲のかたまりが大雨の降ることを予感させているのに、それでも市民プールに泳ぎに出かけた小学五年生の進。人もまばらな空いているプールで、じたばたともがくような泳ぎ方をする少年と進は知り合いになります。その少年は、ふざけてそんな泳ぎ方をしていたわけではありません。身体のバランスがとれないからです。彼には左腕がないのです。浅尾広一と名乗る少年は、進の二歳年上で、同じニュータウンである広大な団地の別の棟に住んでいました。四年前の交通事故で左腕を失ったものの、それでもまだ自分は運がいい方だと言うのは、その時の事故で父親を亡くしていたからです。プール帰りに、どしゃぶりの雨に打たれた進は、広一の家に寄り、着替えを借りることになります。ジャズピアニストである母親の商売道具だというグランドピアノが置かれている広一の家。小さな時から練習を続けてきたのに、今の広一は、ちゃんとピアノを弾くことができません。それでも、広一が右手だけで力強く奏でるガーシュインの「サマータイム」は、聞いたこともないような悲しくてきれいなメロティで、進は胸にしみとおっていくものを感じていました。

真っ直ぐな小学五年生の目から見た、二歳上の片腕の少年とのひと夏の邂逅の物語。ここに、もう一人、主要な登場人物がいます。ぜんぜん真っ直ぐじゃない進の一歳上の姉、佳奈。美しい顔だちで、時には横暴と思うほどの気まぐれ。学校ではとりまきに囲まれている女王差様然としたこの姉の、むやみに意地悪な口撃にいつもさらされている弟、進。ちょっとしたきっかけで佳奈と一緒に広一と会うことになって、それ以来、進の家にも広一は遊びにくるようになります。佳奈の作る海のみたいな味の塩辛いゼリーを食べることになったり、佳奈のへたくそな伴奏に合わせて一緒にピアノを弾いたり、そんなことで次第に気持ちを通わせていく二人の様子に、進はまるで広一を姉にとられたような気持ちになります。片腕を失ってから乗った自転車で転倒したことのある広一は、恐怖心から再び自転車に乗ることができなくなっていました。佳奈は、広一をなんとか自転車に乗せようとコーチするのですが、上手くいかず、広一の臆病さに怒りを爆発させます。やがて喧嘩した佳奈と仲直りもしないまま、何も告げず引っ越していってしまった広一。進には彼との思い出に少なからず心をひかれ続けています。そんなそぶりを見せない佳奈もまたそうなのではないかと、進はひそかに思っていました。クールでいながら、どことなく感傷的で、小学生の物語ながらちょっと大人びた空気感と美しさを持つ、トリップ感のある作品です。

前後巻、全四編で構成される物語。要約したのは、その第一編である、進の視線による『サマータイム』です。他にも佳奈や広一のそれぞれの視線による独立したエピソードがあります。この作品を、僕は二十年近く前に読んだ気でいたのですが、どうやら後巻の『九月の雨』しか読んでいなかったということがわかりました。あらためて今回、『サマータイム』を読んでみて(現在は四編が一冊の文庫にまとめられています)、進の語りによるこの最初の作品だけでも、十分すぎる満足を得てしまいました。父親や片腕を事故で失った悲壮な運命の子である広一。でも、悲しそうなそぶりも見せず、大人びた顔をして母親のことを見つめている広一の姿は、本人の独白よりも、進の目を通して語られる時の方が深くその陰影を感じられます。また進からは、何を考えているのかわからない姉の佳奈の心のうちも、語られない余白のうちに見えてくる方が、魅力的なのです。精一杯クールに、ドライにふるまっている彼らの、本当は揺れている気もち。それぞれの視線の物語で語られてしまうものが、言わずもがなではなかったかと思ってしまうのは、やはり『サマータイム』単体の完成度の高さのせいで、あとは後日談にすぎず蛇足のような気がしてしまうのです。大人びた態度でふるまおうとしている、そんな子どもっぽさ。年少の少年からは憧れをもって見つめられるかも知れませんが、子どもが、そうしなくてはいられないところに立たされていることは、大人目線で見ると、やはりいたわしく、切ないものです。本書でデビューした佐藤多佳子さんのその後の活躍は児童文学だけにとどまらず、一般小説でも秀逸な作品を残されていますが、原点である本書の輝きは格別のものがあります。