出 版 社: 講談社 著 者: 越水利江子 発 行 年: 2008年05月 |
< 風のラヴソング 紹介と感想 >
『風のラヴソング』は読むと気持ちが過去にトリップしてしまうタイムマシンで、なかなか現代に戻ってこられないので困ってしまいます。今回、青い鳥文庫から再刊された本書は、連作短編が一篇増えて八篇となり、さらに中村悦子さんの素敵な挿絵が加わって、「完全版」と銘打たれました。あらためて読んでみて、この作品の純度の高さを再確認しましたが、自分が大人ながら児童文学作品を読み続けている理由の核心に、限りなく近い何かがあると思える読後感です。以前に、この作品について書いた自分の感想文を読み返すと「子ども時代の未消化なままの気持ちを沢山抱えた大人にも力を与えてくれる一冊」とありました。無論、その大人とは自分自身のことであって、それから何年も経っているのに、まだ消化されていないものが残っているのだなと再認識させられました。以下の文章は、以前に書いた、その感想文を再構成したものですが、読むたびに出会う新しい発見と、変わらない良さを伝えられたら良いなと思います。この作品に一杯つまっている、子どもの頃の『鼻がつーんとして』『なにも言えなくなってしまう』気持ち。これに触れたら、一瞬にして過去の世界に運ばれて、子どもの頃の、とても無力だった自分に戻されてしまいます。もし、現在の大人の自分のまま、あの頃の自分に会ったのならどう思うのか。ヤツは今の自分よりも多少は純粋かも知れないけれど、きっとヤワすぎて、弱っちくて見ていられないのだろうな。いいから、あっちに行け、と邪険にしたくなってしまう。すぐ泣くし、いやになる。泣くのを我慢して、ぐっと堪えられたりしたら、もっとイヤなのです。子ども時代の無力感への労しさ。ぽかんと口を開けたまま途方に暮れている、あの当時のあんな気持ちを、なんとなく忘れてしまった自分は、それなりに強くなって、弱い自分を蹴っ飛ばしてきました。でも、まだ疼く気持ちも残っている。こうした大切な感覚について話をしようと思うと、増えてしまった語彙で言葉を積み重ね、その瞬間の複雑な心のありようを説明してしまおうとします。とはいえ、評論や感想では説明できない「物語でしか語ることのできない」感覚が、ここにあるのです。子ども時代の心模様に再会できる作品。是非、覚悟を決めて読んで欲しい、『風のラヴソング』、完全版です。
小夜子という女の子を中心にした連作短篇集。ごく普通の日常の断片を描いた二十年以上にわたる物語ですが、それぞれが独立した短篇であり、小夜子と関わりを持つ子どもたちが、その語り手となっていくため時間の経過を意識させません。小夜子の兄にはじまり、小夜子自身を経て、小夜子の子どもたちに終わる八篇。時代は変わっても、描かれている大切なものは変わらない気がします。小夜子の少女時代は、おそらく昭和時代の中葉。高度成長期であっても、まだ豊かさが国民全体に行き渡っていない頃なのか。物質的な豊かさよりも、もっと大切にされていたものがあったかも知れない時代です。リアルな生活風景の中で、子どもたちが感じている気持ちのゆらぎ。それは切なくて、なんだか胸が痛くなるような感覚に溢れています。親の都合や大人の事情に翻弄されて、納得がいかなくても、それを飲み込まなくてはならなかったり。先生に自分が摘んだ花束を持って行ってあげたのに、なんだか喜んでもらえないまま、先生に気にいられようとしていた自分自身を恥じ入ってしまったり。なんだか自分でもうまく説明できない行動やその時の気持ちを、心ない同級生にからかわれて傷ついてみたり。むやみに切なくなって、誰かの背中についていってしまいたくなったり。うまく言葉にはできない、子ども時代に感じる懐かしくも「なんだか変」な気持ちばかりがここには溢れています。活き活きとした会話と、登場人物たちの元気に満ちた物語は、とても明るいのだけれど、それでいて、ぐっと切なくなる瞬間を持った物語ばかりです。小夜子自身の語りによる『みきちゃん』という作品がとても好きです。「ちょうせん」の子のみきちゃんは、うそつきでいいかげんで、皆んなから敬遠されている。酒を飲んでは暴れ、包丁を振り回しては近所に迷惑をかける父親のことで馬鹿にされ、誰とも口をきかなくなり、やがて家出をする。小夜子には優しかったみきちゃん。小夜子は、山の「秘密のかくれ家」に、みきちゃんを探しにいくのだけれど、そこには誰もいない。本書の姉妹編である『あした、出会った少年』でも描かれている二人の最初の物語は、やはり、胸に沁みるものがあります。本書に寄せられた新しいあとがきに、この短編が越水利江子さんの創作の出発点であると書かれていました。作者の想いが沢山集められた結晶のような作品集。是非、手にとって欲しい一冊です。
貧しさとか、親や家の問題とか、子どもの力ではどうにもならない理不尽な現実も、「子どもなりに」受け入れていかなくてはならない。弱くちっぽけな心に、許容量以上に注がれる痛みにも似た感覚に唸ってしまいます。寂しい、みじめ、かわいそう、そんな言葉で自分をくくられたくない。そうだよね、きっと。そんな一言で自分を言い表したのなら、粉々になってしまうこともある。作者は『ひとりぼっちの戦士たちに』と題したあとがきの中で、現実とたたかう子どもたちが、それでも『現実の世界を愛せる力を残してくれる物語』を書きたいと言われています。理不尽な現実は確実にあって、辛いながらも、それを消化していかなければならない。山のような試練の中で、果たして、夢物語に逃避せず現実と渉りあっていけるのか。大人にとっても、かつて負った傷にむかいあうようなスリリングな読書ではあるのですが、『読み終えたあとの、静かな力になりたいと願っているが、果たせただろうか?』という作者からの問いかけには、はい、と答えられる、たしかな読後感が残ります。今回、講談社、青い鳥文庫から再刊されたことで、きっと多くの子どもたちや、また僕のように、子ども時代の未消化な気持ちを残したままの大人が手にとる機会を得るのでしょう。それはまた喜ぶべきことだと思っています。翻訳児童文学にはない、国内児童文学の魅力について考える時、越水利江子さんが描かれる世界を思います。子どもの無自覚な聖性や、ちょっとした下品さ、かすかに性的なニュアンスなど、リアリズム児童文学での越水作品は、リアリティと独特の香気を持っています。ここに漂う空気には、ちょっと理屈を越えたところで感応してしまうところがあって、そんな言葉で説明できないものこそが「物語」の魅力なのだと、諸手をあげて降参して、こんな感想を書いていることを放棄したくなるのです(とまあ、ここまで書きましたが)。