わたしは倒れて血を流す

Har ligger jag och bloder.

出 版 社: 岩波書店

著     者: イェニー・ヤーゲルフェルト

翻 訳 者: ヘレンハルメ美穂

発 行 年: 2013年05月


わたしは倒れて血を流す  紹介と感想 >
怪我の功名。そんなものがあったとしても、怪我は絶対にしない方が良いです。この物語は、主人公である美術を学んでいる十七歳の少女、マヤが授業中に電気ノコギリで自分を切ってしまい、大怪我をするところから始まります。この事故の描写がとにかく痛々しすぎて、悪寒がするほどです。思い出すだけでゾッとします。ここが物語の起点です。身体の一部が損なわれるということの心理的影響や象徴性もあるのかも知れないけれど、まあ子どもが学校で大怪我をしたら、両親が呼ばれるわけで、そこから具体的に物語が動き始めます。ここで何故か、母親とは連絡が取れないという事態が生じます。ジャーナリストの父親と、大学に勤める研究者の母親。両親は離婚を考えていて一緒に住んではおらず、父親と暮らしているマヤは、週に一度、母親のところに泊まりに行っていました。さて、治療を受けて、鎮痛剤を飲みながら、連絡が取れなくなった母親を探すこととなったマヤ。母親の家に行き、その足跡をたどるけれど、携帯電話は残されているし、不審な点が多い。さて、この物語はマヤが母親を探し、見つけ出すお話です。ミステリーではなく、やがてそれは観念的な意味での母親探しとなり、自分探しとなっていく展開です。母親自身も自分自身を探していて、その正体を自分で知ってしまったがために、逆に自分を見失うという複雑さで、それを娘がどう受け止めるかが焦点です。また、そのことが両親と自分の関係性を捉え、不安定だった自分を捉えられるようになるという、そんな物語で、つまりは怪我の功名です。そうなのか。いや、本当に怪我には要注意ですよ。

マヤは複雑な子です。美術を専攻する高校生で、全身黒づくめの服装に奇抜な髪型をしていて、音楽は70年代から80年代のニューウェーブやニューロマンティックとかが好きで、友だちといえば、やはりちょっと変わっているオタク男子のエンゾしかいない。で、両親対してもコンプレックスな状態で、愛情を希求する気持ちが強いのに、両親ともに普通のタイプではないために、気持ちはすれ違いがち。自分がここにいて良いのかなんて、存在の不安定さに苛まれているような、そんなわかりすい感じの複雑さを持った子です。個性をこじらせがちなタイプですね。ただ悪い子でも意地悪でもない。そんなふうに育ったのは、母親の影響が大きいのかも知れません。母親のヤナは、上手く娘に愛情を伝られる人ではないのです。娘を抱きしめようとしても、ぎこちなくなってしまう。コミュニケーションの理論を研究しながら、自分は人と上手くコミュニケートできない。そんなちょっと変わった母親のことをマナは、それなりに理解していました。ただ、今回、突然に何も告げずにいなくなってしまったのは何故なのか。その答えを探していたマナは、いつも盗み見している父親宛のメールで、答えを知ってしまいます。それもまた怪我の功名なのかも知れません。

母親が普通の人と違うことに、無論、マナは気づいています。愛情表現が苦手であることも、どこか態度が不自然なことも理解しています。それは母親の個性だと思っていたのです。だからこそ、愛情を希求してしまうし、自分を承認して欲しい気持ちも強いのです。今、母親のヤナは、自分を見失っています。対人関係において不器用な自分という個性や、研究に没頭する姿勢さえも「アスペルガー症候群」の発現であると見なされたのです。アイデンティティ・クライシス。しかしそれは母親との距離を模索し続けてきた娘にも、突きつけるものがありました。母親の実体とはなんだったのか。デッドボールすれすれ、凄いところにボールを投げ込んでくる、この物語はどう帰着するのか。無論、Y Aフィールドの安心感はここにあるので、そう恐れなくても大丈夫だと言っておきます。それにしても人間としての個性を心理学を越えて、化学や科学、それこそ医学で説明されてしまうというのは驚きで、文学もなり立たなくなるのでは、と思いきや、ここに生まれる葛藤もまた文学だなと、耽溺しています。何より愛について考えさせられる作品であした。それこそが文学だなと思うのです。