いつか太陽の船

出 版 社: 新日本出版社

著     者: 村中李衣

発 行 年: 2019年03月

いつか太陽の船  紹介と感想>

東日本大震災が発生したのは 2011年3月11日のことです。 その死者や行方不明者、また被害にあった人の数は膨大で、歴史に刻まれるものとなりましたが、現時点(2020年1月)では、まだ十年が経過してはおらず、「歴史上の出来事」として語れるものにはなっていません。いや当事者にとっては、おそらく数十年が経ったとしても、客観的に捉えられることではないのだろうなと思います。なので、児童文学の題材にするには、まだ「生々しい記憶」でありすぎるのではないか、という懸念があって、東日本大震災を描く児童文学に対して、どこか心配する気持ちがあったのです。要は自分自身が、被災した子どもの受けた心的外傷や失ったものの大きさが計り知れなくて、傷つけることを怖れるあまり、どう言葉をかけたら良いのかわからないからです。しかしながら、人を励ますには、言葉をかけなければならない、と思うのです。物語という「言葉」は人を励まし、勇気づけます。人はどうやって喪失感を乗り越えていくのか。そんなノウハウでも、ケーススタディーでもなく、ずっと当事者としての時間を生きている登場人物たちに心を添わせることで見えてくるものがあるかも知れないと思わせる作品です。長年に渡って村中李衣作品の凄みやエッジの鋭さを再三味わってきた読者としては、やや驚きも感じる直球の物語なのですが、ここに描かれる再生の希望はまた貴く、心を貫かれるものがあります。 

宮城県の気仙沼から北海道の根室に小学生の海翔が家族とともに移り住んだのは、六年前の東日本大震災の津波で、家も、父親の職場であった工場も全てが失われてしまったからです。もとは工場の倉庫だった場所を借りて、家族四人が暮らせるようになったのも、父親の仕事の関係の人たちの応援によるものでした。海翔の父親はアルミ船を作る造船の仕事をここで続けながら、再び、気仙沼に帰って造船工場を復活させる夢を抱いています。海翔は友だちと離れ離れになってしまい、今はみんなどこにいるのかさえ知りません。何よりも、飼っていた柴犬のスパナと避難の途中ではぐれてしまったことに、今も海翔は苦しんでいます。小さい弟のようには新しい環境に馴染めない海翔は、この土地の名物のサンマ漁にも気圧され、魚を採るカモメにも腰が引けています。とはいえ、少しずつですが、海翔も、この港町の人との触れ合いや、ベトナムから技術研修生との交流を通じて、自分の足場を固めていきます。あたたかい周囲の人たちに支えられていることを体感しながら、静かに心を動かされていく少年は、一足飛びに変わることはないけれど、少しずつ何かを掴んでいく。そんな穏やかな成長が描かれた物語です。

やはり物語を通じて元気がないままの、海翔の失意が痛ましく感じるところです。周囲の人たちの情や、父親を始めとした決意を持った大人たちの心意気に感じ入りながらも、自分がなにもできないことや、なにものでもないことに失意を感じている海翔。「失う」という体験が人間に刻んでしまうものについて感じさせられます。大きな転機があって、一気に考え方が変わるような都合の良い展開はなく、じっくりと少年の戸惑いを見せてくれます。人々のバイタリティに溢れた姿や、サンマやカモメの躍動感が圧倒的で、非常に活力がある描写が際立つ中で、沈んでいる少年が少しだけ前を向いていく佇まいが沁み入ってくるところです。スイッチを切り替えるようには人間は変われないと思います。それでも人は努力してしまうことが、哀しくも、いとおしいものです。人に助けてもらっていると、早く元気を出すことを自分に強いるようになるものですが、急ぐ必要はないのだと思います。この物語が与えてくれるものも、そうした時間を悩みながら生きている少年への共感です。失意と共にあった時間が養うものがあるはずです。とまれ、主人公の苦しみに寄り添うという物語の味わい方もあるかなと、いつもおっかなびっくりで、人の心に触れることを恐れている自分また、励まされているような気もしています。