きみの話を聞かせてくれよ

出 版 社: フレーベル館

著     者: 村上雅郁

発 行 年: 2023年04月

きみの話を聞かせてくれよ  紹介と感想>

この人とは考え方が違うから話をしても無駄だな、と他人のことを簡単に諦めがちな昨今です。思想の違いは越えられない壁だと思うようになっています。それでも社会人として人と付き合わないわけにもいかないので、この人はこういう考え方をする人だから、こう合わせておこう、みたいな処世術を駆使するようになります。逆に自分も人に合わせてもらっているのだろうと思います。理解はされていないだろうけれど、なんとか社会や会社に居場所があるのは、適当に付き合ってくれる周囲の気遣いのおかげです。共感はないが、適度な距離感で共生することができれば上出来ではないか。これは、かなり人として末期の発想で思春期の理想とはほど遠いものでしょう。大人はイヤなものですが、子どもよりはずっと楽です。わかりあえないってことだけをわかりあうのさ、というような歌詞を嘯くのは青年期のイロニーです。人とわかりあいたい。そんな気持ちがまだどこかにある時、逆に人は孤独を意識することになるでしょう。中学生のしんどさは、理想と現実のギャップから生じるような気がします。自分のことなど、人には思いたいように思わせておけば良いし、それでも自分の本質は変わらないものです。でもまだどこかに、本当の自分をわかって欲しいという渇望がある。そんな時「きみの話を聞かせてくれよ」という言葉の魔力を思います。人とはわかりあえないものだと、とっくに諦めてしまった大人でも、どこかに疼く気持ちがあるとすれば、この物語の魔法は有効だと思うのです。孤独を抱えている子どもたちに声をかけ救う使命を託されていたのは誰だったのか。主人公の中学生たちが語り手を変えながら進行する連作短編。物語がたどり着く場所に描かれた世界に注目です。

中学二年生の女子、白岡六花(りっか)は自分が美術部で浮いていることに自覚があります。部でまじめに絵を描いているのは六花だけだし、コンクールで賞をとったことさえ反感を呼んでしまいます。まじめにやらないならやめたらいいのに、と六花は他の子たちのことを考えていますが、それは才能がある六花の奢りだと、友だちの早緑(さみどり)から諫められ、早緑とも疎遠になってしまいます。誰とも分かりあえない孤独を感じながら、放課後に一人、学校をさまよい絵を描く場所を探していた六花に声をかけて屋上に案内してくれたのは、同じクラスの男子、剣道部の黒野良輔でした。飄々とした態度で、黒野はさりげなく六花の悩みを聞き出し、なんとなくアドバイスめいたことを口にします。六花の気持ちがほどけるのは、その先の展開となりますが、読者はこの最初の物語で、この黒野という変わった少年を意識することになるはずです。次の物語の主人公はお菓子作りが好きな一年生、轟虎之助(とらのすけ)。女子からマスコット的に扱われているカワイイ男子なのですが、彼としては不本意です。そんな虎之助が何故か剣道部の三年生で女子も憧れるボーイッシュな祇園寺羽紗(うさ)先輩にケーキ作りを教えることになります。周りからのイメージと自分自身のギャップに悩む二人には気持ちが通じるところがありました。人が「らしさ」に誰かを押し込められてしまうのはどうしてか。虎之助に示唆を与えたのは、やはり二人を仲介した黒野です。黒野は、主人公を替えながら続くこの物語の中でずっと、屈託を抱えている子たちの心の声を引き出し、誰かとの関係を繋いでいきます。一見、お節介には見えないさりげなさで。さて、登場人物は次第に増えていき複雑に関係していきます。虎之助を好きな女子、七海湊(みなと)の失恋の話を聞き出したのも黒野です。そんな黒野に気持ちを寄せていく女子、杉谷夏帆(かほ)もいます。学校の群像劇は、小さく傷ついている子どもたちを登場させ、それぞれが黒野の軽口めいた箴言に気づきを与えられていきます。七つの短編で、中学生たちの自分の個性や人との関係性についての等身大の悩みが大いに語られていきます。心に潜めていた気持ちが聞き出され、共有された時、あらかじめわかりあえないと諦めていたこの世界が違う色を見せはじめます。人にとって孤独とはなにか。そして、未来を自分たちで変えていける可能性を見せてくれる希望を語る物語です。

どんな会議にもファシリテーターが必要です。それぞれの意見を上手く引き出し、まとめながら進行する役割の人です。反対意見が対立するならまだしも、大きな声を出す人の意見が通り、黙ったまま不満を抱えている人がくすぶっているような会議は意味がありません。優れたファシリテーターは、参加者同士に化学変化を起こして意見を融合させ、会議を進化させていきます。さて学校という場所にファシリテーターがいたら、どうなるか。先生は会議の議長か、あるいはオブザーバーであって、子どもたちをファシリテートする役割ではないと思います。かといって、露骨な「お友だち係」に声をかけられたとしても、辟易するのが思春期というものでしょう。だいたい思春期なんて、膨大な自意識を持て余した唯我独尊で意固地なものです。自分のことでいっぱいで、人の気持ちを慮ることもできないまま、尊大になるか卑屈になるかです。そんな面倒くさい子たちを繋げるために、あえてファシリテーターを買って出る子がいるのかは大いに謎です。本書の黒野少年の存在は、物語が進むにつれ、一体、何を企んでいるのかと謎めいて感じられるかと思います。この無償の好意に裏はないのか。見えざる手を回すことで人を操り、万能感を得たかったのか。その理由は物語の終わりに明らかになります。ナチュラルな善意や人間に対する漠然とした好意に対して懐疑的になってしまうのが大人びた態度だとすれば、それは存外、つまらないものです。つまらない大人になる前に、愛し愛されて生きる世界を標榜してみる方が素敵ですね。そんな気持ちを中学生に抱かせるだろう物語です。もはや話をしても無駄だと諦めかけている大人の皆さんも是非。