さよならの月が君を連れ去る前に

出 版 社: スターツ出版

著     者: 日野祐希

発 行 年: 2019年11月

さよならの月が君を連れ去る前に  紹介と感想>

本来、死から一番遠いところにいるのが若者です。病気のリスクは低く、小中高生の自死も取り沙汰されはしますが、ごく稀なケースだからであり(もちろん深刻な問題ですが)、年齢別の構成比から見れば多くはないものでしょう。早逝が痛恨の極みであるのは、病気にせよ、事故にせよ、まだ死ぬべきではない年齢の人に訪れた不幸であるからです。一方で余命モノに代表される若者向けの小説では「死」が題材となりがちです。この「若いのに死んでしまう」という状況が物語にもたらすものや、そこに若い読者が抱くだろう感慨について考えさせられます。死とは縁遠い世代であるがゆえに、より死にインパクトを受けるのか。歳をとると、死への態度は変わっていきます。他人の死も自分の死も、静かに受け入れられるようになるものかも知れません。早逝は惜しまれますが、永遠に生きられるわけではない有限性の中で、いかに生きるか、に人生の焦点は絞られます。死を意識しないと生が輝かない、というのは皮肉ですが、平穏で安穏な日常を劇的に彩るものが死なのかも知れません。とはいえ、物語の題材としてワイルドカードとして使われる死には、やや複雑なものを感じてしまうものです。本書は、幼なじみの少女の死をなんとしても食い止めようとする少年が主人公です。少女の死を目の前にして、過去に時間を遡った主人公は、再度、その瞬間を迎えないように画策します。同じ時間を繰り返すタイムリープものとしてのSF的な面白さと、命が失われることを前提にしたことで、一度目の人生では意識しなかった普通の日常の意味や少女との関係性を主人公が捉え直していくあたりにYA的な味わいのある物語です。ここで描かれる「死」について、ちょっと考えを巡らせています。

幼なじみの雪乃(ゆきの)が、自ら展望台の崖から飛び降りて死んでしまう場面に遭遇してしまった高校生の大和(やまと)は、この現実をどう受け止めて良いのか分からず動揺したまま、不思議な力によって、ひと月前の時間に運ばれます。雪乃が死んだのは七月二十八日。思い返しても、何故、雪乃が自死を選んだか思い当たらない大和は、二回目の七月を生きながら、なんとか雪乃の死を食い止めようと考えています。彼女は何か悩みを抱えていなかったか。雪乃は、事故で両親を失い、中学二年生の頃から不登校がちで、そのまま高校にも行かず、一人引きこもって暮らしています。そんな雪乃のことをなにかと面倒を見ているのが大和です。内弁慶で大和の前では横柄な態度をとる雪乃。そんな雪乃が大和の世話にならず、ちゃんと自立する、などと言い出すものだから、大和としても訝しく思います。三週間後の雪乃の自死を防ぐ。それには同じ時間を同じようになぞっているだけではダメなはずなのです。両親の事故死を雪乃ば乗り越えたと大和は思っていました。しかし、雪乃が自死に行き着いてしまう現実を大和は知っています。この二度目の七月を生きながら、大和は幼なじみである雪乃と自分との関係を、あらためて考え直していきます。彼女の存在が失われる未来を前提にして、その大切さを大和は実感しています。他の女の子との関係を巡っての雪乃の不自然さに戸惑ったり、急に避けるような態度に、この七月が一度目の時間と異なってきていることに大和は不安を覚えます。一度目の世界よりもどこか積極的な雪乃なのに、このまま自死してしまうのか。やがて運命の日である、二度目の七月二十八日を大和は迎えます。そこで大和はこの事態の真相を知ることになるのですが、それはどうやっても逃れられない時間のループへの挑戦を決意させるものとなります。さよならの月が君を連れ去る前に、大和には何ができたのか。雪乃への想いを自覚し、このかなり思い切ったアクションを彼が決意するに至った二度目の七月の日々に、読ませるものがあります。

何度も同じ時間を繰り返し、それでも悲劇的な結末を避けられない、というタイムループに陥ることがあります(現実には滅多に陥りません)。YA系だと『バイバイ、サマータイム』という秀逸な作品がありました。同じ死を何度も迎えている少女を、なんとかして、そのループから解き放つため、ちょっと情けない少年が奮起するペーソス溢れる物語です。ただ、彼女を救うのは「ループから」であって、その死は既に確定済であるというのが辛いところです。主人公が立ち向かうものも、ある意味、自分自身、だったのかも知れません。タイムリープやタイムループは、青春の葛藤と親和性が高いのです。物語はありえない可能性をロマンとして見せてくれますが、現実にはやり直しが効かないのが人生であり、やり直せない代わりに、一度目の失敗から何かを掴むしかないのだろうと思います。人は死んだらお終いです。それはとても深刻なことです。ゲームのようにリセットして、やり直せないわけです。一度きりの人生や死を想うこと。余命モノに象徴される消費される死は批判されがちですが、そこには真摯でひたむきな生が逆照射されているものだと思っています。一方で、ひとつの仮説として、死が、生きることで向き合わなければならない現実的な困難よりも、若者にとって安全圏にある題材なのではないか、という邪推もしています。もっとも、日常から遠い死だからこそロマンとして耽溺できるものやも知れず、それは存外、幸福なことなのかも知れません。