出 版 社: 理論社 著 者: 高田桂子 発 行 年: 1989年03月 |
< ざわめきやまない 紹介と感想 >
父親は大阪に単身赴任中。それなのに、母親は短い置き手紙だけを残して、家を出てしまいます。三か月時間をください、という文面。十五歳の里子をそのまま家に一人にしておくわけにはいかない、ということで京都に住んでいる祖母が東京の里子の家にやってきてくれました。何故、母は家を出たのか。親の身勝手さに里子はいらだちを覚えています。そもそも、父の仕事の都合で、自分が何度も転校を繰り返さなければならなかったこと。仕事第一の父の態度は独善的です。ありがちな男の身勝手さ。仕事を懸命にやって、成績をあげて、自分だけは自信に満ちた様子でいられる。家のことはなおざりだけれど、そんなことはあたり前だと思っている。それに対して、いちいち口をはさまないではいられない母の性格は、父とはかみあいません。身体の弱かった、まだ七歳だった里子の弟を肺炎で亡くして以来、歯車があわなくなってしまった家。激しく憎しみあうわけではないけれど、互いに労わりあうべき家族関係が機能不全に陥っている。ゆるく家庭が壊れた状態。軽いアルコール依存に陥っていた母が家を出ることは、そんな家族の関係の中で、ひとつのエポックでした。一体、何を母は求めているのか。けっして自殺なんかはしないと祖母は請け負ってくれていますが、里子は心配しています。果たして、三か月後に母は本当にこの家に戻ってくるのでしょうか。
里子の学校での生活も、そんなにすんなりとはいっていません。中学生は子どもでありながらも思うままにふるまえず、しがらみと見えないルールにしばられているものです。中学校で目いっぱい自由でいようとすることは難しい。二年生の時に転校してきたこの学校は、今までに比べればわりとマシな方だけれど、時々、ひっかかることもあります。教師の大人的ないやらしさ。生徒の自主性を尊重するふりをしながら、自主的に規範を守っているような意見をあえて生徒に言わせようとする。なんでも大人の都合の良いようにコントロールされてしまう。同級生だって牽制しあっています。学校で生き抜くためには、気が抜けないのです。友だちの麻美は、かつて苛められていたことの防御策として、さりげなく人の弱味を握ることに躍起になっています。ちいさな世界を狭い心のまま生きている人たち。千里のことを好きらしい浩二のなにげない言葉に、ナチュラルに男性的な身勝手な価値観を感じてしまう千里。浩二の母親が色々な活動に躍起になって、必死に自分の居場所を探していることにも苦いものを感じてしまいます。男も女も、大人になっても、なかなか自由な心にはなりえないし、どこか寂しい。里子は転校してきた帰国子女の千佳と親しくなり、すこし世界の広がりを感じるようになります。自分にはまだ何もできないことに凹んだり、自尊心をかすかにくすぐられたり、人を冷静に観察しながらも、自分の心さえ見えなかったり、十五歳の揺れる心模様がビビットに描かれる思春期児童文学。手放しに自由になれない世界で、それでも豊かに生きようする心の姿勢がここにあります。
「自分さがし」のブームは80年代から静かに続いています。思春期ならともかく、大人にもなってなぜ、という気はしますが、実際、いい歳をしても自分を探している人は多いのです。ゆだねられる絶対的な価値観がなく、自分の居場所も見つけられない。親の世代がそんな状態だとすると、子どもとしても戸惑わないではいられません。母親世代の「自分探し」という、やっかいなものに娘世代は、どう視線を向けるべきか。なかなか温かく寛容に見守ることはできない気はします。それよりも、子どものことをもっと考えてちょうだい、ですよね。親の世代もまだ人間としてバランスがとれていないのなら、この物語のように賢明な祖母に登場してもらうしかないのかも知れません。社会情勢の変化の中で、理想とされる自分像は確実に変わってきていますが、根底として、強く「自分」が意識されていることは一緒です。かつては、家庭で果たす役割の方が、自分が自分であることよりも重要でした。そうした抑圧から解放された女性は、しかし、今度はどんな自分になったらいいのか。この物語は、女性の生き方について洞察し、強者である男性の、または男性社会の無意識のエゴをいさめます。かといって、がちがちのフェミニズムではなく、男女の対等なパートナーシップやより良い関係を求め、もっと互いが豊かに生きていけることを嘱望する深遠な思春期小説。これも児童文学の新機軸です。