風の靴

出 版 社: 講談社

著     者: 朽木祥

発 行 年: 2009年03月


風の靴  紹介と感想 >
サイアクの夏。私立の志望校に進学できず、仕方なく公立中学に進んだ海生は、高校受験でリベンジするために、この夏もまた受験勉強に精を出さなくてはなりません。そんな、ウンザリするような中一の夏休みを送る予定の海生。優秀な兄と同じ学校に進学する。どうしてそんなことが自分には運命づけられているのか。僕はそうならなくてはならないから、そうなんだ。でも、大好きだったおじいちゃんの死が、海生の中のなにかを呼び覚まします。海を愛し、海生にヨットの手ほどきをしてくれたおじいちゃん。もやもやを抱えていた海生は、ついに決意します。家出をしよう。参考書を捨てて、海に出るのだ。友だちの田明と一緒に飼い犬のウィスカーも連れていく。おじいちゃんのA級ディンギー(船室のないヨット)、ウインドシーカー号を駆って風色湾を目指す。そこにはクルーザー、アイオロス号が停泊しているのだから。途中、思いもよらない拾いものをしながら、一行の旅は続きます。秘密の入り江でのキャンプ。自給自足の野外生活。底抜けに笑い、キャンプファイアを楽しむ。海を照らす輝ける月の下で、最高の仲間たちと過ごす時間。海の英気を沢山吸い込んで、チャージされていく海生の姿。そして、ささやかな旅の終わりは、新たなるはじまりでもあります。おじいちゃんが遺してくれた言葉は、行く先を見失っている海生の進路を明るく照らします。美しい海の昼と夜の情景。光がきらめき、心地よい潮風が通り過ぎていく。鬱屈した少年の心象が、自然の中で浄化されていく。そんな姿をただ見守るだけで、不思議な読書の快感がわきあがってくるのです。

らかじめ、海に出るつもりだった。未知の扉を開けるつもりだった。漂流することも覚悟の上で、非常食の準備も怠らなかった。なんて言いながらも、この物語には命からがらのピンチはありません。身体的な危機にも晒されないし、心が潰れるようなクライシスにも遭遇しない。それはこれが自分がどんなに愛され、守られているかを再認識する夏の旅であるからです。無論、それは結果であって、当初の想定としては、危険を孕んだ海の上の冒険の旅なのです。吹き抜ける風を読み、風にのり、駆けていく。風になるのではなく、風の靴を履いて大海原を疾走する。胸のすくような清涼感と、心豊かな「考え方」に出会えるのがこの物語の魅力であり、不思議な世界感覚に浸ることができます。「おじいちゃんのヨット」を借りて、用意周到な家出にくりだす十三歳の夏。このブルジョアのお坊ちゃんめ、などと差別してはいけません。子どもたちは、それぞれの境遇の中で、精一杯、とりまく世界と闘っているのです。幸福な浮世離れ。それもまた良し。海外に暮らす子どももいれば、経済的に豊かなことが前提になっている子どももいる。国内児童文学の変遷の中で、描かれる子どもたちの境遇も随分と変わってきているのです。

進むべき方向を目指すためにはコンパス(方位磁石)が必要です。四方を水平線に囲まれ、目印がない絶海では、どちらに進んでいいのかわからない。思春期は迷える季節で、進行方向に思い悩むものですが、そもそも自分の立っている場所がどこかさえわからないものかも知れません。ところで、主観と客観は大いに違うものです。裕福な家庭に育って、成績も優秀で、得意なこともあって、豊かな心とインテリジェンスのある家族や友人を持っている海生。彼は恵まれています。でも、それは客観的な事実でしかない。本人がコンプレックスや失意に沈んでいるのなら、とりまく世界はグレイにしか見えない。本人が気づかなければ、立っている場所の豊さにも意味はないのです。自分に与えられた恵みを自覚する旅。恵まれているということは、本来、とても素敵なことです。大切なのは、その「恵み」を享受すること。海や山や、光や風、自然はこんなにもあふれている。自分が風になるのではなく、風の恵みを受けること。あの場所に行けば、それは誰にでも与えられる。心のスイッチをオンにさえすればいい。でも、これがなかなか難しい。家族や友人に恵まれている人も、気づかないことが多いのです。自分の場所を確かめてみる。今、自分はどんな心の場所に立っているのだろう。そんな時、読書はコンパスになって、自分の感性のかたむきを確認させてくれます。この物語の夏の海の光と風はややまぶし過ぎますが、まずは光の射す方へ。風の吹いていく先へ。迷っても、軌道修正しながら進んでいけばいい。そんな示唆に満ちた豊かな作品です。