出 版 社: 徳間書店 著 者: ジャミラ・ガヴィン 翻 訳 者: 野の水生 発 行 年: 2005年12月 |
< その歌声は天にあふれる 紹介と感想 >
「こども」と表記する際に「子供」と書かずに「子ども」と書くことには理由があります。教育関係の方や児童文学関係の方たちは、とくに意識的にそうされているようです。子どもの基本的人権が保障されることを目的として国際的に批准されている「子どもの権利条約」も「子ども」と表記されています。この理由は諸説あるのですが、僕が学生の時に教育原論の授業で教わったのは「供=大人の従属物」説です。だから、なるべく「供」という字は使わないのだというのです。「障害」を「障がい」と書く方たちがいるように、ここにはひとつの「願い」があります。かつての暗黒の歴史の中で、子どもたちが虐げられてきたという事実。本書『その歌声は天にあふれる』は、18世紀のイギリスの、そんな子ども事情が物語の前提となっています。著者の前書きによれば、当時の街道や間道には、幼い子どもの骨が散乱していたと言います。虐待や使役によって安易に損なわれていた命。親のいない孤児たちが愛情深く育てられることなど奇跡に近い状況だったようです。知っているようで良くは知らない、そんな過酷な時代を背景にして語られる子どもたちの物語。18世紀を舞台にしているだけではなく、18世紀~19世紀前葉の文学作品に見るような、実にドラマチックな運命に翻弄されていく主人公たちの物語に、驚嘆したり、胸躍ったり、願をかけてみたり、愛おしくなったりする、そんな素敵な作品です。願わくば、二時間は時間を設けて一気読みをお願いしたい。きっと読後には、満足いく読書の充実感を味わえるとともに、更に考えさせられると思います。
一七四一年。町から村へ渡り歩く、いかがわしい行商人の親子、オーティスとミーシャク。彼らの裏の商売は、「不要な子ども」を預かって孤児院に連れていくこと。子どもが「不要」だなんてことはない、というような、人道的建前はこの時代では通用しません。貧しくて育てられない子どもや、世間に知られてしまうわけにはいかない良家の私生児など、親が手放さなければならない子どもは確実にいて、また容易に「処分」されてしまう時代でもあったのです。それでも、「コーラム人」に子どもを預ければ、無事、手厚い庇護を与えてくれるコーラム養育院に連れていってくれる。どんな事情はあれ、やはり、小さな命が損なわれることは、親たちにとっても辛いことだったのです。ところが、この「コーラム人」たるオーティスの非道ぶり。無論、善行を施しているコーラム養育院とはなんら関係がありません。お礼をたんまり受け取って預かった子どもを、ちょっと愚鈍な息子ミーシャクに命じて、森の奥深く、土の中に埋めて処分させてしまったり、将来の労働力として、遠い国に行く船に乗せてしまう悪漢なのです。頭の弱いミーシャクなりに、自分のやっていることには疑問がわいています。これは本当に「慈善」なのかと。無論、そうじゃない。ミーシャクもまた、過酷な世界を生きている子どもなのです。早く母ちゃんのいる天国に行きたいけれど、自分にはまだそれが許されていない。いつか自分を天国に連れて行ってくれる、天使。ミーシシャクは、みんなに馬鹿にされ、父親にも罵られ、こき使われながら、あの「天使」のことを夢見ていました。ミーシャクが、名門、アッシュブルック家の地所で見かけた天使は、人には言えない秘密を抱いていました。自分が天使のためにできることは何か。無垢なままに、これまで非道を行ってきたミーシャクが、天使のためにやってのけたことは、後に思わぬ運命の糸を引きよせ、人々の縁をつなぎ、一編の物語を編んでいきます。悲劇と懲悪と和解と邂逅を経て、悲しくも美しい物語は、天使の歌声に満ちた星空の下、幕を閉じるのですが、いやそこまでにいたる歳月を、つぶさに見守り続ける読書の興奮は、なかなか得難い体験ではあります。この感想では、物語の真の主人公のことをはじめとして、多くを語りすぎなかったつもりです。是非、この本を手にとって読書の喜びに満たされて欲しいと願うところです。嗚呼。
酒井駒子さん描く美しい装画と、ほどよく音数律を意識させられるリズミカルで心地よい野の水生さんの訳文が、大時代な物語を彩り、香り立つロマンを盛りたてます。未だ蛮風に沈んでいる近世世界の闇の中に、美しくとどろく天使の歌声と、無垢の光明。物語めく物語の魅力を存分に味わえる作品です。登場人物たちの心情はストレートで、あまり複雑な自我や、アンビバレントな要素は描かれていない、という擬似クラシックな作品の心地良さを沢山持っている作品ですね。そんなロマンを楽しむ一方で、読後に考えさせられたのは、やはり圧倒的な弱者として使役され続ける「子ども」の存在についてです。この時代のすぐ後にやってくる産業革命では、子どもたちの労働力が工業生産にどれほど供給されたのか。これから近代へと向かう、社会の中の子どもたちの事情を、もう一度、おさらいしたくなるところです。そして、現代ではどうなのかということも。本書を読んだ後、前から気になっていながら未読だった『子ども喰う世界』を読みましたゴヤの絵を表紙絵にした象徴性は、子どもが喰われ続ける社会の脅威を伝えています。1980年代後半の東南アジア諸国の子ども労働者の実態のルポ。イギリスでは19世紀の終わりには禁じられた子どもの労働力としての使役が未だに続く現状と、結局それは先進国の経済的利潤を支えているという事実。日本人観光客の性的な売買の対象ともなっている子どもの状況など、我々の目からは見えないところで、未だに続いているかも知れないものが詳らかにされています。いつしか、そこから20年が経過しているわけですが、果たして、世界の子どもたちの人権はどれほど守られるようになったのでしょうか。国内でも虐待事件が相次いで報道されている中、「赤ちゃんポスト」のようなものを、自治体が制度化する状況もあります。あらかじめ失われたものを、子どもたちはどのように取り戻していくのでしょう。児童文学が扱うもの、としては、ハードすぎる素材なのですが、こうした渦中で翻弄され続ける子どもの心を救うものとは何か、を考えさせられます。現実社会との戦いの中で文学は無力か、は学生ならぬ今でも、時折、考えます。それでも、物語が人間の心をサポートする力を持つことは、ささやかな救いではあるけれど、きっとある、と確信するところです。