出 版 社: WAVE出版 著 者: コルネーリア・フンケ 翻 訳 者: 細井直子 発 行 年: 2002年05月 |
< どろぼうの神さま 紹介と感想 >
子どもが寂しい思いをしていると、胸がきゅーとなってしまいます。厭なのは、子ども自身は「寂しい」という言葉を思いつきもしないで、心がスウスウして変だぞ、とか、涙が出てくるけれどなんでだろう、とか、ちょっと困ったことになったなあと思いながら曖昧に微笑みを浮かべて佇んでいたりするからです。子どもが寂しいのは、とても厭なのです。寂しいってことも良くわかってないんだ。漠然とした、なんか哀しい気持ちをもてあましている。可哀相だなんて思うなよって、意地を張っているのも見たくない。「可哀相」って言葉に押し込められると、本当にそうなってしまうから。精一杯、気をはっているけど、時々、ふいに気持ちが溢れてしまう。それが余計に哀しい。子どもの頃の「鼻がツーンとするような気持ち」に児童文学を読んでいると良く再会することがあります。それは、「寂しい」なんて言葉でパッケージ化された感情ではなくて、もっと複雑な要素がからみあったもの。この作品に出てくる、子どもの寂しさは、とても痛いのです。でも寂しいなんて言わない、言えないんだ。子どもでいるっていうのはそういうこと。一所懸命、背伸びをしていた少年は、物語の中で、ついになりたかった大人になることができます。でも、大人になると、寂しくなくなるのかな。作品の冒頭に、こんな言葉が掲げられています。『大人はわすれてしまっている 子どもでいるというのが、どういうことなのか』。この物語を読み終えて、考えてしまうのは、寂しい気持ちを抱えたまま大人になってしまった少年のことです。大人になったら忘れられる気持ちもあるのかな。いや、そうでもないんだよね、きっと。誰しも未解決なままの気持ちを、静かに忘れながら大人になるのか。物語の余白に、沢山の思いをはせることのできる作品です。
スキピオは天才的な盗みの技術を誇る少年。自称「どろぼうの神さま」。ヴェネチアの街の、金持ちの家に忍び込んでは盗品を仲間たちに提供します。手口は慎重。仲間たちにも、その手の内は明かさない。スキピオの仲間たちは、言うなれば浮浪児。孤児院から脱走してきたり、親から疎まれたり、大人とは一緒にいられなかった子どもたち。スキピオが盗んできた貴重品を古物商に買い取ってもらい、お金に替える。それぞれユニークな個性を持った子どもたちは、事情もそれぞれ。でも大人になんか保護されたくない、自分たちの力で生き抜いていこうとしているのは同じ。さて、「どろぼうの神さま」の腕を見込んで、ある物を盗んで欲しいとの依頼が舞い込みます。依頼人の伯爵と名乗る人物が欲していたのは「つばさ」。翼を持つライオンの石像に欠けてしまった部品。また、盗みに入った家で子どもたちは、かつて「慈悲ぶかい修道女会」が所有していた五つの動物の石像に飾られたメリーゴーラウンドに「魔法の力」があったということを知ってしまいます。果たして、石像が元の姿に戻ったとき、メリーゴーランドは、どんな奇跡を紡ぎ出すのか。月の都ベネツィア、石像と運河の街を駆け回る子どもたちの姿とファンタジーが交差していく、古都の美しい情景に彩られた神秘的な物語。ライオンの顔の意匠がついた運河の橋の上を黒マスクの「どろぼうの神さま」が闇夜に跋扈する表紙も素敵です。格好良いだけじゃない、ちょっと胸の痛くなるような子ども心も一杯つまった物語。子どもの心を忘れた大人にも、今、一所懸命背伸びをしている子どもにも、読んで欲しい一冊です。
盗みに手を染める孤児たちというあたりから、ディケンズの『オリバー・ツイスト』を思い出していました。近年、映画化されていたので、現代の子どもたちにも「孤児」のイメージを伝えた作品かと思います。『どろぼうの神さま』の孤児たちは、大時代的な「可哀相なみなしご」ではなく、もうちょっと自由闊達な街の冒険者という感じです。大人に縛られない自由。それは、別に貧富も関係なく、子どもなら誰しもが願うもの。でも傲慢な大人の庇護下でしか生きられない子どもたちも実際にはいるのですね。「どろぼうの神さま」であるスキピオは少年たちの顔役でありながら、他の少年たちには決して言えない葛藤を抱えていました。弱くて、力のない、子どもでなんかいたくない。早く大人になりたい。自由になりたいという願い。もう一度、子どもに帰りたい大人と、大人に憧れる子どもたちが繰り広げる500ページのファンタジー巨編。この物語を読み終えた大人は、最後にちょっと、自分の子ども時代の気持ちを考えてしまうはずです。そして、今、自分は自由になれたのだろうか、と。