わたしが少女型ロボットだったころ

出 版 社: 偕成社

著     者: 石川宏千花

発 行 年: 2018年08月


わたしが少女型ロボットだったころ  紹介と感想 >
無自覚な良い人、というキャラクターが登場する物語があります。素直で穏やかで心優しい善意の人。一方、酷薄で底意地が悪くて厭な物の見方をすることが人間の根底にはあるから、あえてそうならないように意識的に努力している「良い人」もいます。石川宏千花さんの作品に出てくる「良い人」には、後者の印象があります。そのため物語には、すごくイヤな感じの人物がカウンターパートとして、あえて登場した上で断罪されています。光を浮き上がらせるために描かれる陰の深さには、やや辟易してしまうのですが、世の中にはそうしたものがあるのだと見せつけられている気がします。石川宏千花さんの作品は、性悪説に立った児童文学なのではないかというのが僕の仮説です。僕も自分の意地の悪さには自覚があるので、人にはなるべく優しくしなければと意識しています。ナチュラルに良い人ではないからこそ、理想があるのです。この物語のメインキャストである二人は、そうした悪意も存在する優しくない世界の中で傷つきながらも、互いを思いやり、この世界を生き抜こうとしています。それでも希望はあるのだと、このイヤな世界で孤独な闘いを続ける子どもたちを励ます力を持った作品です。

中学三年生の女子、多鶴は、ある日突然に自分がロボットであることを思い出してしまいました。ロボットだから食事をする必要はない。そのことに気づいてしまってから、食べることができなくなってしまった田鶴。ロボットであることには思い当たるフシがいくつもありました。自分の父親の存在について、今まで聞かされたことがない。恐らくは、母親がどこかから購入してきたロボットなのではないか。現在の技術では無理だとすれば、異星や未来からこの世界をモニターするために送りこまれた存在ではないのか。そんな妄想めいた田鶴の言葉を、真摯に受けとめてくれたのが同級生の、まるちゃんこと丸嶋君です。現在の技術で人間そっくりの精巧な少女型ロボットを作り出すことが可能なのか。大学の工学部に通っている、まるちゃんの従兄のともくんに相談するために、二人は一緒に東京に向かいます。まるちゃんもともくんも、恐らくは田鶴の「異常」に気づいています。それでも、田鶴のためにできることを模索します。食事ができず、どんどん痩せ細っていく田鶴はロボットではなく、ただの摂食障害であり拒食症です。それでも、自分をロボットだと感じている田鶴を「ただの摂食障害ではないと思う」と言う、まるちゃん。まるちゃんもまた家庭の事情があり、「それどころじゃない」心を抱えながら田鶴を気づかっていたのです。どこか同志めいた心の繋がりを持つ中学生二人が、互いを支えあい、この世界を生き抜いていく優しい物語です。

摂食障害を描いた物語というと『鏡の中の少女』(レベンクロン)が思い出されるところですが、もう30年以上前の小説となりましたね。海外の児童文学では『ビター・チョコレート』(プレスラー)という作品もありました。ダイエットが行き過ぎて、拒食や過食になるという認識も一般化したと思います。いとうみくさんの『糸子の体重計』のように、子どもたちがダイエットをすることはあっても、国内の児童文学でこうした病的な状態にまで陥ってしまう作品があったかなと考えていたものの浮かばず、大島弓子さんの『ダイエット』は凄かったなあ、なんて思い出すぐらいでした。病的な状態になるのは、心のバランスが脆くも崩れてしまっているからであって、その要因には複雑な家庭環境や学校の人間環境にあるのかと思います。この物語でも、田鶴の母親に十二歳も歳下の女性の恋人がいるということが、少なからず田鶴に影響を与えています。原因があれば解決策があるのかというと、そこは単純な図式ではなく、田鶴が真剣に自分を見つめ直そうとトライしても、肩すかしにあわされたような手応えのなさに途方に暮れます。それでも自分を縛るものを解いていくことはできるのだと、希望は灯っているのだと、そのメッセージには力づけられました。まあ色々と大変だなと、思春期病棟の当事者たちの苦痛を思います。ささやかに思いを寄せることぐらいしかできないのだけれど。