ケンガイにっ!

出 版 社: フレーベル館

著     者: 髙森美由紀

発 行 年: 2016年03月


ケンガイにっ!  紹介と感想 >
「ケンガイ」と聞けば、県外ではなく、まず圏外が思い浮かぶようになりましたね(自分が都内で暮らしているからでしょうか)。電波を受信できる圏内にいることがあたりまえで、ネットワークに繋がっていることがごく普通の状態になっているのが現代社会です。スマホや携帯の電波が入らない場所なんて、どれだけ僻地かと思ってしまう。でも、そんな場所が日本にもまだあるのです。小学五年生の男子、俊が夏休みを過ごすことになったのは、祖母の住む「ケンガイ」でした。言葉はすごく訛っているし、独自の風習もある、かなり濃厚な田舎です。オンラインゲームにハマって昼夜逆転生活となり、成績も落ちているのにパソコンやスマホから離れられない俊。ついには親のカードでゲーム課金をしていたことがバレてしまいます。両親に命じられたのは夏休み中、田舎で一人暮らしをしている祖母の元で暮らすこと。そこは、携帯の基地局がない「ケンガイ」だったのです。ネットに依存していた少年は、この電波も通わぬ絶界で何を感じとっていくのか。いたって今日的な題材でありながら、いわゆる「山村留学モノ」のご多分に漏れない人間性回復が鮮やかに行われていきます。ともかく田舎感がすごい。字面で見ていても言葉の意味がわからないほど訛っているし、終バスが午後三時半というリアリティも効いてます。コミカルなトーンでありながら、多くの痛みを孕んだ物語。さあ、「ケンガイ」に出かけましょう。

俊がネットにのめり込んでいったことには理由があります。両親ともに忙しく働いていて家のことはなおざり。一人の食卓は弁当かカップラーメン。誰もいない家でなにをしたらいいかわからないし、ネットにつながらないと窒息してしまう。そんな俊が祖母の家に行かされることになったのは、叱りながらも、俊の荒んでいく姿を両親も見かねたからかも知れません。いたって明るい家族関係が描かれていますが、この家族は俊の弟の健太を交通事故で亡くしたことで打ちひしがれていました。両親が忙しく働いていることも気持ちを紛らわすためかも知れないし、俊のネット依存だって誰もいなくなってしまった一人の時間に耐えかねたからかも知れません。最初は祖母の住む村がスマホの電波のケンガイであることにパニックになった俊も、祖母の手料理を一緒に食べたり、地元の子どもの剣太と亜紀という双子の兄妹と親しくなることで、ここでの生活にも次第に慣れていきます。この村の風習である「お食いじめ」という不思議な儀式や、ダイエットから拒食症になってしまった亜紀のエピソードなどが交錯し、やがて、俊は自分がネット依存になっていた本当の理由を見つめていきます。少年の心のスクラップ&ビルドが行われるには、やはり過去の辛い出来事を見つめ直さなければならないわけですが、それぞれのエピソードが持つ「含み」が、新しいターンを少年が迎えられるようにしっかりと導いていってくれる、そんな安心感もありました。

現実に居場所がないからネットに逃げていた、という理由づけは物語をわかりやすくしてくれます。実際、ネット依存にはもっと複雑な深淵があるのではと思いますが、児童文学が描くものとしてはヘビーすぎるかも知れません。ニューヨークを舞台にしたオランダの児童文学『100時間の夜』もまたネットの呪縛からから離れられないティーンを描き出した作品です。百時間に及ぶ大停電の最中、まるで喉の渇きを癒すように携帯電話を充電しようする子どもたちが印象的でした。思ったことをツィートしないではいられないなんて、依存症を越えて強迫神経症の域です。ここでもネットは否定的に描かれていました。若い人には俄かに信じられない話でしょうが、ネットを通じて人や情報と繋がることが、奇跡のような恩恵だと思われていた時代もありました。今となっては、本来の人間の繋がりを疎外する仮想敵とされているオンラインです。スマホデトックスなんて言葉も聞くように、断食ならぬ、スマホ断ちを強制的に行う合宿もあります。児童文学はやはりバーチャルよりリアル礼讃で、ネットの暗がりに隠れないことが推奨されるのが基調となっていますね。西暦2000年に刊行された『メールの中のあいつ』はネットで知り合った少年少女のお話でしたが、この作品にはネットの光と影が描かれていました。いや、本当、光あるからこそ影があるわけで、功罪の功もまた称えたいのです。とはいえ、冷蔵庫ってありがたいよね、とか熱く語り出すとどうかしてると思われるわけで、ネットもまた家電並みに浸透したのですよね。この物語の中で、スマホの電波は届かないのにラジオの電波が届くことに俊が驚く場面が良かったです。この理由をちゃんと子どもに説明するのは、自分には難しいのだけれど。