セントエルモの光

久閑野高校天文部の、春と夏

出 版 社: 講談社

著     者: 天川栄人

発 行 年: 2023年04月

セントエルモの光  紹介と感想>

ネット上で人と繋がる、ということを始めたのは、まだネットコミュニティの黎明期の頃でした。インターネットが一般的に普及する以前にはパソコン通信というものがありました。限られた人しか参加していない秘密の花園でしたが、縁もゆかりもない人と、共通の趣味についてネットを通じて話ができるということに、過度に期待していた記憶があります。自分の語ることに人が関心を持ってくれるのではないかという期待は、孤独な心の渇望からくるものでした。要は、誰かに話を聞いてもらいたかったのです。で、案の定、独りよがりな話は、無視されるのが当然で、リアルと同様に人付き合いの難しさを知ります。ネットでの会話やコミュニケーションの作法やリテラシーが確立しておらず、自分も上滑りしていました。まあ、人に理解してほしければ、自分から人を理解しようとするべきですが、それもまたネット社交の温度感としては違和感があるかも知れません。手探りで場の空気を読んでいきながら、現在にいたります。掲示板時代、ブログ時代、SNS時代と、ネットコミュニティの歴史に、自分も参加しながら見てきた印象は、まあ、適度な距離感を保ちながら共感を育てる場所だろうというのが実感です。人とはわかり合えないものだと失望するものでもありません。人と関わることは人間不信になるリスクがあり、これはネットに限らず、リアルでも同様です。本書は、中学生時代にSNSで傷つけられて、リアルな人間関係も壊してしまった高校一年生の女子が主人公です。そんな体験があると、人との関係を結ぶことにも臆病になってしまうものですが、意外に当人には弾力性があって、高校では失敗せず上手くやれるように慎重になることで適応しています。とはいえ、本質的に怖れがあるし、人との繋がりへの期待感を持ててはいません。ただ、誰かと一緒ではないと不安なのです。多かれ少なかれ、誰でもそうしたものでしょう。教室で机を並べて、軽口をたたいていても、SNSで頻繁にやりとりをしていても、人の本心などわかるものではありません。だから、この宇宙に一人きりでいるような孤独に、人は苛まれるのです。過度に期待しないことが肝要だと思いますが、それでも、絶望をデフォルトにすることはないよと含みは持たせたいものです。共に生きる歓びもないわけではないというのは、やや無常な感慨ですが、この宇宙は無情ではありません。

中学三年間を東京で過ごし、元々住んでいた田舎町の久関野に戻って進学した高校一年生の女子、安斎えるも。東京帰りだからと悪目立ちしないよう、細心の注意を払いながら学校での友だち付き合いを続けています。頻繁にSNSでのやり取りをして、更新も怠らない。リアルでだって、愛想笑いは絶やさないのです。空気を読んでうまくやることに躍起になっているのは、中学生の時にSNSで匿名のアカウントから送られてきた中傷メッセージに動揺して、それを周囲の友だちに打ち明けたところ、非難だと受け取られ、学校で居場所を無くし、適応障害になるという辛い目にあった経験があるからです。ここでは上手くやらなくてはならない。外向きのフレンドリーさとは裏腹に、えるもの内心は不安で迷ってばかりいました。クラブ活動を決められていないのも、自分が進むべき我が道がわからないからです。そんな折、学校の屋上で望遠鏡で空を見る二年生の男子生徒と、えるもは出逢います。宇宙人と呼ばれている天文部の変わり者、二年生の男子、橋本嵐士(あらし)です。顧問の先生から天文部に誘われた、えるもは屋上での星の観察活動に顔を出すようになったものの、嵐士からは素気なく扱われます。とはいえ、この孤立癖の強い変な先輩と、噛み合わない対話を続けているうちに、えるもは次第に色々な気づきを得るようになります。友だちと一緒にいるのに寂しいのは、どこにも自分をわかってくれる人がいないからではないか。人づきあいを無視して、一心に星を観察する先輩を見ながら、えるもは自分も熱中できるなにかを見つけ出そうと思います。天文部への入部を決めたものの部員がいないために廃部が決まっていると聞かされた、えるもは、幼なじみたちを天文部に誘い、存続に向けて行動を開始します。やがて、頑なに人を拒む嵐士の心の事情もまた見えてきます。キラキラとした明るい生活に憧れるティーンが、暗さの中だからこそ見出せる光もあるのだと知ること。道しるべとなる北極星もまた不変ではないということ。人が生きる上での真理とはなにか。閉塞した世界の中で、すこし顔を上げて、空を見る。えるもが次第に嵐士への想いを深めていく後編と合わせて、児童文芸家協会賞を受賞した好編です。

本書は宇宙をモチーフにして思春期のティーンが抱く孤独について語りかける物語です。それで思い出すのが、森絵都さんの『宇宙のみなしご』です。1990年代初頭の、まさにパソコン通信時代の物語で、一部のネットにつながっている子どもが「変わり者」とみなされて軽視されているのも、あの時代を感じさせる作品です。社交としてのSNSの拘束がなかった分、人は幸せだったのではないか、とか言い出すと元も子もないのですが、それぞれ孤独で、宇宙のみなしごである子どもたちが、どのように手をつないでいくかを清新に描いた、現在に通じるヤングアダルト作品スタイルの先駆けの物語でした。北極星(ポラリス)もまた物語のモチーフによく使われるものです。地球からの見かけとはいえ、宇宙の中心にあって、孤独でありながら、人をみちびく役割を果たすこともある。そんな慄然とした存在への憧れは多くの物語で語られます。思春期の心中に兆している深い孤独。他者への不信と、自分もまた何者でもなく、人の足を引っ張るだけの存在だという自己不信。本書で注目すべきなのは「フライバイ」を比喩としていることです。『二十億光年の孤独』の昔から、万有引力は引き合う孤独の力だということは定説なのですが、フライバイという引力を利用する宇宙航法が、人間同士のつながりに重ねられるあたり見事なのです。足をひっぱり合うことも、その魅力に惹かれあうことも、影響を受けあうことも、引力をもった者同士が作用し合うことで起きる営みこそが人間関係なのだと物語は示唆します。引き合うだけではなく、反発しあうことも人を動かす力だと思うものの、顔の見えない匿名の悪意は脅威です。物語は傷つけられた側の回復を見守ります。傷つけた側は無自覚である可能性が高く、その心の深淵はブラックホールであって、手に負えないというのが、宇宙モチーフの限界点です。えるもはわりと簡単に、自分を中傷した犯人を許し、後編(『アンドロメダの涙』)では一切、その件に触れない潔さなのですが、深淵にある見えない悪意が可視化された時、人はようやくそれと対峙して、受け入れられるものかも知れません。一方、嵐士を傷つけた悪意はまだ暗闇の中にあって、おそらくは表には出てこないでしょう。正面きってケンカできないジレンマは如何ともしがたいものです。では、心の痛手をどう癒したら良いのか。物語には救いがありますが、現実としては、やや途方に暮れます。さて、自分はネットコミュニケーション推奨派です。宇宙とは言わないまでも、これは世界と繋がることができるツールです。ヤングアダルト作品ではSNSの閉塞感が語られ、縛られて、拘束されているあたりが基点になりがちで、そこからのブレイクスルーが物語の主題になります。折角の望遠鏡で半径5mを見ていても仕方がないはずです。まあ、望遠鏡で隣人のアラ探しをしないことが肝要かも知れません。宇宙に目を向けないとな、と思うところです。