![]() |
出 版 社: 講談社 著 者: ジェニファー・リチャード・ジェイコブソン 翻 訳 者: 武富博子 発 行 年: 2008年09月 |
< キャンプで、おおあわて 紹介と感想>
いつもごく自然に嘘をついている虚言壁のある人ならともかく、嘘は罪悪感を伴うものだろうと思います。嘘をつくには、それなりの理由があり、なにか不都合な真実を隠すためというのがその筆頭でしょう。本書の主人公であるウィニーの場合、お母さんがいる、という嘘を、思いがけずついてしまいます。お母さんがいる方がレギュラーですが、ウィニーはそうではないイレギュラーな子です。自分もそうだったので心境がわかるところですが、子ども時代に、お母さんがいない、というのは、なんとなく口にしにくいことです。家族事情は変化していて、色々な形態の家族があって良しは現代(2026年)の感覚でしょう。恥ずかしく思うようなことではありません。とはいえ、幼くして死別していると、やはり人から可哀想な子と思われてしまいがちです。この同情を向けられがちな自分を、当人も憐れんでしまいがちで、やはり惨めな気分になってしまいがちなのです。ということで、初対面の人の前で、普通の子のようにふるまいたくなる、というのは大いに理解できます。とはいえ、嘘は嘘で良くないし、ついた当人も気が重いものです。しかもひとつの嘘を取り繕うために、嘘を重ねなければならなくなる。ウィニーも次第に自分の嘘に追い込まれて、動きが取れなくなっていきます。自分は、母親がいる、という嘘をついた記憶はありませんが、巨大なムシを見たという嘘を吹聴したことは覚えていて、やや罪悪感が残っています。今となってはなぜそんなことを言ったのか、その心理をトレースしてみたいところです。なぜムシか。
生まれてはじめてサマーキャンプに参加することになったウィニー。五歳の時からいつも一緒の友人であるヴァネッサ、ゾーイとの三人組での参加とはいえ、不安な気持ちはぬぐえません。もし二人と離れ離れになってしまったらどうしたらいいのか。心配はつきませんが、パパの励ましもあって、いさんでキャンプに出かけたウィニー。案の定、二人とは別のテントに宿泊することとなり、他の学校の知らない子たちと一緒になったウィニーは、つい、自分にもお母さんがいるような嘘をついてしまったのです。そのお母さんが画家で、しかも有名人でと、嘘は大きくなっていきます。思ってもみなかったことを口走っていた自分の迂闊さ。周囲の人を騙している気まずさ。いやな気持ちはどんどんと積み上がっていきます。本当のことを知っているヴァネッサやゾーイには「おおうそつき」と言われているような気がして苛まれ、さらには、保護者見学会には、有名な画家であるママが来ることを期待され、実際、来るであろうパパにもこのことがバレるのです。さて、どうしたら良いものか。ここでやはり幼なじみの二人にまず正直に打ち明ける勇気をふり絞るあたりから活路が開かれていきます。子ども時代の気まずさ満載の物語は、なんとか問題の発展的解消を迎えます。かろうじてです。この折り合いのつけ方のバランスが秀逸です。
ウィニーシリーズの前作『バレエなんて、きらい』では「習いごと」という、やはり子ども時代の難題とウィニーは向きあっていました。友だちとの付き合いで始めたバレエを、いやいや続けていたけれど、自分には向いていないから辞める、という結論に至ります。物語がその結論を肯定するあたりも良いところです。人には向き不向きがあり、自分にとって楽しいと思えることをやる方が良い、という考え方は正解かと思います。一方で、諦めずに続けるべき、という正論に、諦めがちな自分を省みて苛まれることも多いものです。児童文学やヤングアダルト作品の主人公たちは、あたりまえのことをあたりまえにこなすことが得意ではなくて、素直に子ども時代を楽しめないことが多いものです。サマーキャンプなんて、気負わずに楽しめばいいものでしょう。ところが心配ばかりして、案の定、失敗するという隘路に陥ります。本書においても、同情の余地はありますが、悪いのはやはり、嘘をついたウィニーです。できない自分やダメな自分をどうにか受け入れるのが精一杯で、肯定することもままならないのですが、正論一辺倒ではない、こうした児童文学の救いはあると思うのです。自分にしても子どもの頃の思い出といえば、だいたい気まずかったことばかりで、逆に言えば、そうしたことだけしか覚えていないので、たいていの行事関係は嫌な思い出です。上手くやれなかった子ども時代を過ごした人間からすると、ウィニーの、心配ばかりしているくせに、自ら墓穴を掘っていく迂闊さには既視感がありすぎて、労しくなります。これでは気まずい思い出をたくさん作ることになるでしょう。一方で、ウィニーは友人たちや周囲の大人の寛容さに助けられています。そう悪いことばかりでもなかった、という思い出は忘れがちなものですが、そう追い込まれずに、子ども時代を過ごせたら、それもまたラッキーなものではなかったかと思うのです。そんな、なけなしの前向きさも必要です。
