嘘吹きアンドロイド

出 版 社: PHP研究所

著     者: 久米絵美里

発 行 年: 2024年02月

嘘吹きアンドロイド  紹介と感想>

「できる」よりも「できない」方が愛される、という逆説は、人間の判断を狂わせます。愛されるために、できる存在でいなければとならないと思って努力しているのに、逆効果だとしたら、もうどうしたら良いのか。完全ではない自分もまた愛されるという真理は、内省的かつ自罰的な人には青天の霹靂であって、頑なな心も解ける僥倖です。とはいえ、努力の方向性を見失うし、時に人をあざとくもさせます。機械もまた完成度の高さが求められるようでいて、ちょっと「できない」可愛げがあった方が愛されるのは不思議です。本書にも、段差を越えられない掃除ロボットの話が例証されますが、ルンバをペットのように思ってしまう心理も、その不完全さゆえでしょう。対話型AIも登場したての頃は、本を紹介してもらうと、実在しない作品をあげてきたり、かなり無茶苦茶な答えを返してくるので、微笑ましく思っていたのですが、現在(2026年)ともなると、かなり精度が高くなってきて、便利さの反面、脅威を感じるようになっています。そのうち本の紹介文など人間が書かなくても良くなるでしょう。さて、何にせよ愛されたいものです。人は愛されないと、色々と拗らせることになります。愛されるために可愛げを発揮するということは、存外、難しいことです。できないフリもまた、できるものではありません。周囲の人に馴染めないのは、自分が宇宙人だから、というのは、自分の社交力のなさを直視しなくて済む言い訳です。では、自分はAIを搭載した人型ロボットだと言うのはなんのためか。愛されたくて人は狂うし、愛されない時には、やはり何か言い訳をしたくはなるのは、そうしてでもバランスをとらないと生きていけないからです。本書には自称アンドロイドの少年が登場します。同級生としてAIロボットが一人、教室に混じっている、という題材はよく描かれますが、この振り幅は広くて、落としどころもまたいくつもあります。本書はあの嘘吹きシリーズの一冊であり、子どもたちが嘘をつかざるをえない人の心理にアプローチし、熟考する異色の児童文学です。ロボットが教室にいる可能性がありうる現在、物語という虚実の狭間から真理が見出されることも多分にあるだろうなと思っています。

中学一年生の女子、理子(りこ)は同級生で幼馴染の鞠奈(まりな)に、三組の男子、田中瑠卯(るう)がアンドロイドなのだと話を振られます。当人自身が、高機能AIを搭載したアンドロイドであるとSNSに投稿したというのです。整い過ぎたCGのような顔をした田中くんはたしかにアンドロイドっぽくはある。とはいえ、言葉通り信じることはできません。正義感の強い理子は、こうしたことから、いじめが始まることを見過ごせないタイプであるために警戒心を抱きますが、鞠奈はそんな田中くんに興味津々で、早速、メッセージを送って接触を試みているというのです。理子はこの出来事に不穏なものを感じて、同級生の水川錯(さく)に相談します。錯は、理屈ばった少年で、弁も立ちますが、ネットや印刷物の嘘を見抜ける嘘吹きという特殊能力を持つために、逆に人と上手くコミュニケーションできず、彼の理解者である校長先生の家に寄宿しながら半ば不登校のような毎日を送っていました。理子とも言い争ってばかりの関係ではあるものの、仲が悪いわけではない二人。とはいえ、錯は、アンドロイドと人間の違いについて言説を弄して煙に巻くので、理子は腹立たしく思うばかりです。さて、田中くんと親しくなった鞠奈を通じて、彼と話をするようになった理子は、何故、彼がアンドロイドを自称するのか真意を知りたいと思います。人一倍、給食を食べるし、ペットにパンダマウスを飼い始めたという、まったく人間らしい田中くん。自分はアンドロイドとして社会実験を続けているのだと嘯く田中くんの言葉に理子は翻弄され続けます。一方で理子から田中くんの話を聞きながら、錯もまた疑問を追求しようとしていました。田中くんをAIチャットと対話させたらどうなるのか。そこから錯は田中くんの真意にアプローチしていきます。人が嘘に隠して、自分でも気づかないまま本当に求めているものが、やがて明らかになっていきます。子どもたちが思考を重ね、問答を通しながら、アンドロイドとは違う人間らしさとは何かを見出そうとする物語です。

自称、宇宙人という芸能人は、ジギー・スターダストの昔から数多く存在します。奇抜な設定ですが、好奇心をそそられるものです。勿論、それが「設定」だからという前提だからこそ、楽しめるところであって、見る側もその企画に参加している当事者になるわけです。これが、本当の宇宙人だったり、自分を宇宙人だと確信している病理の人だとすると微妙な感じになるのは、暗黙の約束事が崩れて、違うステージに突入してしまうからです。AIロボットが教室に紛れ込む物語は多々ありますが、本書は、まだAIロボットが実現していない世界が舞台です。自称、高機能AIを搭載したアンドロイドだという少年は、当初よりあからさまな嘘をついているということが前提です。なぜ、人は嘘をつくのか。嘘をという虚に「実」は隠されています。芸能人が、何故、宇宙人などという、トンチキな設定を繰り出してきたかは、それぞれの目論見があってのことですが、近々、高機能AI搭載のアンドロイドを名乗るミュージシャンも現れるでしょう、というか、既にAIは音楽制作に活用され始めているので、既に「実」に入り込んでいるのです。混ざり合う虚実の狭間にある現代だからこその鑑賞もあるものかと思います。感情のないAIは動物を大切にできるのか、という本書で言及されたテーマも『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の頃のようなSFの中だけの仮定ではないかと思うと、時代の変遷に感じいるものです。さて、理子も錯も自分をしっかりと自分の考えを持った子どもたちであるがために、凡百な同級生たちとなじめない孤独感があります。考えを深めていけば行くほど、ノリは悪くなるわけで、周囲とスウィングできなくなる。錯と理子は表向きは反発し合いながらも、同じ性向を持った同志ではあり理解者です。色々な事件を通じて、二人は問答し、答えのないことへの探究を続けていきます。一風変わった子どもたちではあるのですが、世を拗ねることなく、自分たちなりに自省しながら、不器用にこの社会に居場所を見出そうとしているあたりが、彼らの身上かと思うのです。まあ、上手くやれないことがヤングアダルト作品の主人公の特性かも知れず、だからこそ愛おしさを抱いてしまうものかも知れません。